Schloss Grafenegg Wolkenturm 2019年8月31日 19時15分〜21時25分
Tonkünstler-Orchester Niederösterreich
ソプラノ Genia Kühmeier
指揮 Peter Ruzicka
Peter Ruzicka (*1948)
«Furioso» für Orchester (2019)
Uraufführung. Auftragswerk des Grafenegg Festivals
Richard Strauss (1864-1949)
«Vier letzte Lieder» für Sopran und Orchester AV 150 (1948)
Johannes Brahms (1833-1897)
Symphonie Nr. 4 e-Moll op. 98 (1884/85)
夏の最後が近づいて来ていて
最後の暑さで(来週週末はかなり涼しくなるらしい)
日中は32℃。
ただ、湿気が50%を切っているので
あまりじっとりした感じはなくて
多少早めに到着したグラーフェネックのお庭で
樹の影のデッキ・チェアを確保して
コンサート前にウトウトするのは最高の贅沢。
さて、え〜っと、あの、その、う〜ん。
音楽評論じゃなくて、批評でもなくて
私の自分用のメモなので
しかも私、音感も音楽性も耳も知識もないので
とんでもない印象なのかもしれないから(前置き・言い訳)
2日続きでバーミンガム市民交響楽団を聴いちゃったからなぁ・・・
(あ〜、言いたい事は察して下さい)
さて、今年のコンポーザー・イン・レジデンスの
ペーター・ルチツカは
指揮者とか音楽監督とかの活動は知らないが
(かなりオーケストラを指揮していらしたようだが
私は今まで指揮者としてのルチツカは舞台で見た事がない)
作曲家としてなら、CDまで持っているくらいなので
まぁ、私好みの作品を作曲する人ではある。
だから、最初の初演曲が、ものすごく楽しみだった。
弦の極限まで早いパッセージで始まり
パーカッションがかなり強調されている。
予想通りとは言え
周囲の小声のお喋りが・・・(涙)
気に入らなくても、何だコレ、と思っても全然構いませんが
その感情を、演奏中に周囲の友人やら家族やらと
口頭のコミュニケーションで共有するのはお願いだから止めて(涙)
この曲だが
ティーレマンがルチツカと現代音楽について語った際に
現代に、何故、コンサート序曲がないか、という話になったのが
契機だったと言う。
コンサート序曲!!!!!
先学期、メンデルスゾーンのコンサート序曲のプロゼミで
序曲の分類やら、コンサート序曲の構成やらと
じっくり向き合った私には、得意の分野ではないか。
(かなり思い違いがあるが、そこらへんはまぁ・・・(笑))
この「コンサート序曲」、演奏時間は15分ほどで
最初の極限の早いパッセージ(弦楽奏者イジメ?)の部分の後
リズムが変わって、調が変化した中間部に入り
最後に、最初の部分の音型の変化型が中心になる。
FMB(フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ)の
コンサート序曲は
ほとんどの場合はソナタ形式で作曲されているので
(美しきメルジーネが純粋なソナタ形式ではない、というのは
私の同僚が論文で書いた)
私も、中間部の後の、変形モチーフが出て来た時に
あ、ここが展開部かな?と注意して聴いていたのだが
展開部にならずに終わってしまったので
いわゆる3部のリート方式を使っているようだ。
個人の感想用メモなので
ヘンな事をごちゃごちゃ言ってますが
すっ飛ばして無視して下さい。
慢性中二病なので、ついついこういう事を書きたいのだ(恥)
こういう曲、好きだわワタシ。
スコアみたら面白いかも・・・
今日のトーンキュンストラー・オーケストラ
舞台に出て来た時に、えっ?という既視感があって
あれ、もしかしたらオーケストラ間違えたかも?という気分になったのは
今日のコンサート・マスター、借り物じゃないの!
それも何故に、ブレゲンツの音楽祭での出稼ぎから戻った
あのオーケストラのコンサート・マスターを借りてくるわけ?
(別に個人的恨みとかはございませんが・・・
あのオーケストラの第一バイ(以下省略))
さては、リヒャルト・シュトラウスの曲中のバイオリン・ソロを
オーケストラ・メンバー、誰も弾きたくなかったのか?(邪推)
ゲニア・キューマイヤーのソプラノで
最後の4つの歌。
グラーフェネックの広大な庭園の
夕暮れの雰囲気には、とても合っている。
ルチツカの最初のコンサート序曲が
ほとんど暴力的なエネルギーの爆発だった後
歳取ったリヒャルト・シュトラウスが
過去に戻って諦観に至って
世間から離れて紡ぎ出した
徹底的に時代に逆らった美しい曲が
自然の空気に溶けていくのを感じる快感。
野外音楽堂で音が散ってしまうとは言え
こういう曲が大自然の空気の中に散っていく、というのは
かなりオツなものだ。
幕間の後はブラームスの交響曲4番で
これも、そろそろ夏の終わり、という時期には合ってる(かも)
演奏については、何も言わない(察して下さい)
そりゃ、プロのオーケストラだから
そこそこの演奏はちゃんとするし
ブラームスの交響曲シリーズは
以前のオロスコ=エストラーダの時にも録音したし
その後の佐渡マエストロの時にも演奏して録音しているので
オーケストラとしてはお手のものなのだろうが
あ、これ以上書くと、気分を害する人もいそうなので
止めておく。
音楽性ゼロ、感受性ゼロのクラオタは
こういう曲は頭に入っているので
頭のチャンネル合わせれば
少なくとも曲の輪郭くらいは出て来てしまうので
ライブで聴くとなると
頭の中よりも、ちょっと違うものを要求したくなっちゃうのだ。
自分ながら嫌らしい性格である。
ルチツカのオーケストラの立たせ方も何だかなぁ。
あのプレイヤーだけを立たせるか?と
私は驚いたもん。
(だって、ソロが巧かったかと言うと
いや、一応、ちゃんと演奏したが
フレーズの解釈の点で私とは相容れないところが)
しかも、カーテン・コール2回目で
またもや同じプレイヤーを立たせて
プレイヤーが戸惑ってるじゃないの。
何かオーケストラ内部で政治的絡みでもあるのか、と
(あいつはうまく立ててやらないといかん・・・とか)
ついつい邪推してしまった(根性悪です、すみません)
隣の年配カップルも、かなりのクラオタらしいが
ちょっとしたミスのところで
「ほら、ミスった」とか
演奏中に、コソコソと小声で呟くのは止めて欲しかったわ。
まぁ、それがクラオタの醍醐味なのかもしれないが(笑)
太陽が落ちると少し気温も下がり
夏の夕暮れの中で
(コオロギの鳴き声はもう私の耳は慣れてしまい
完璧に無視できるようになった (^^)v)
リヒャルト・シュトラウスの最後の4つの歌と
ブラームスの交響曲4番というプログラムの選択は
雰囲気には、バッチリと合っていた。
明日もまだ晴れて暑くなりそう。
例年の国立オペラ座オープン・ハウスで
バレエのレッスン見てからグラーフェネックに向かう予定の
懲りない私に
どうぞ1クリックをお恵み下さい。
Tonkünstler-Orchester Niederösterreich
ソプラノ Genia Kühmeier
指揮 Peter Ruzicka
Peter Ruzicka (*1948)
«Furioso» für Orchester (2019)
Uraufführung. Auftragswerk des Grafenegg Festivals
Richard Strauss (1864-1949)
«Vier letzte Lieder» für Sopran und Orchester AV 150 (1948)
Johannes Brahms (1833-1897)
Symphonie Nr. 4 e-Moll op. 98 (1884/85)
夏の最後が近づいて来ていて
最後の暑さで(来週週末はかなり涼しくなるらしい)
日中は32℃。
ただ、湿気が50%を切っているので
あまりじっとりした感じはなくて
多少早めに到着したグラーフェネックのお庭で
樹の影のデッキ・チェアを確保して
コンサート前にウトウトするのは最高の贅沢。
さて、え〜っと、あの、その、う〜ん。
音楽評論じゃなくて、批評でもなくて
私の自分用のメモなので
しかも私、音感も音楽性も耳も知識もないので
とんでもない印象なのかもしれないから(前置き・言い訳)
2日続きでバーミンガム市民交響楽団を聴いちゃったからなぁ・・・
(あ〜、言いたい事は察して下さい)
さて、今年のコンポーザー・イン・レジデンスの
ペーター・ルチツカは
指揮者とか音楽監督とかの活動は知らないが
(かなりオーケストラを指揮していらしたようだが
私は今まで指揮者としてのルチツカは舞台で見た事がない)
作曲家としてなら、CDまで持っているくらいなので
まぁ、私好みの作品を作曲する人ではある。
だから、最初の初演曲が、ものすごく楽しみだった。
弦の極限まで早いパッセージで始まり
パーカッションがかなり強調されている。
予想通りとは言え
周囲の小声のお喋りが・・・(涙)
気に入らなくても、何だコレ、と思っても全然構いませんが
その感情を、演奏中に周囲の友人やら家族やらと
口頭のコミュニケーションで共有するのはお願いだから止めて(涙)
この曲だが
ティーレマンがルチツカと現代音楽について語った際に
現代に、何故、コンサート序曲がないか、という話になったのが
契機だったと言う。
コンサート序曲!!!!!
先学期、メンデルスゾーンのコンサート序曲のプロゼミで
序曲の分類やら、コンサート序曲の構成やらと
じっくり向き合った私には、得意の分野ではないか。
(かなり思い違いがあるが、そこらへんはまぁ・・・(笑))
この「コンサート序曲」、演奏時間は15分ほどで
最初の極限の早いパッセージ(弦楽奏者イジメ?)の部分の後
リズムが変わって、調が変化した中間部に入り
最後に、最初の部分の音型の変化型が中心になる。
FMB(フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ)の
コンサート序曲は
ほとんどの場合はソナタ形式で作曲されているので
(美しきメルジーネが純粋なソナタ形式ではない、というのは
私の同僚が論文で書いた)
私も、中間部の後の、変形モチーフが出て来た時に
あ、ここが展開部かな?と注意して聴いていたのだが
展開部にならずに終わってしまったので
いわゆる3部のリート方式を使っているようだ。
個人の感想用メモなので
ヘンな事をごちゃごちゃ言ってますが
すっ飛ばして無視して下さい。
慢性中二病なので、ついついこういう事を書きたいのだ(恥)
こういう曲、好きだわワタシ。
スコアみたら面白いかも・・・
今日のトーンキュンストラー・オーケストラ
舞台に出て来た時に、えっ?という既視感があって
あれ、もしかしたらオーケストラ間違えたかも?という気分になったのは
今日のコンサート・マスター、借り物じゃないの!
それも何故に、ブレゲンツの音楽祭での出稼ぎから戻った
あのオーケストラのコンサート・マスターを借りてくるわけ?
(別に個人的恨みとかはございませんが・・・
あのオーケストラの第一バイ(以下省略))
さては、リヒャルト・シュトラウスの曲中のバイオリン・ソロを
オーケストラ・メンバー、誰も弾きたくなかったのか?(邪推)
ゲニア・キューマイヤーのソプラノで
最後の4つの歌。
グラーフェネックの広大な庭園の
夕暮れの雰囲気には、とても合っている。
ルチツカの最初のコンサート序曲が
ほとんど暴力的なエネルギーの爆発だった後
歳取ったリヒャルト・シュトラウスが
過去に戻って諦観に至って
世間から離れて紡ぎ出した
徹底的に時代に逆らった美しい曲が
自然の空気に溶けていくのを感じる快感。
野外音楽堂で音が散ってしまうとは言え
こういう曲が大自然の空気の中に散っていく、というのは
かなりオツなものだ。
幕間の後はブラームスの交響曲4番で
これも、そろそろ夏の終わり、という時期には合ってる(かも)
演奏については、何も言わない(察して下さい)
そりゃ、プロのオーケストラだから
そこそこの演奏はちゃんとするし
ブラームスの交響曲シリーズは
以前のオロスコ=エストラーダの時にも録音したし
その後の佐渡マエストロの時にも演奏して録音しているので
オーケストラとしてはお手のものなのだろうが
あ、これ以上書くと、気分を害する人もいそうなので
止めておく。
音楽性ゼロ、感受性ゼロのクラオタは
こういう曲は頭に入っているので
頭のチャンネル合わせれば
少なくとも曲の輪郭くらいは出て来てしまうので
ライブで聴くとなると
頭の中よりも、ちょっと違うものを要求したくなっちゃうのだ。
自分ながら嫌らしい性格である。
ルチツカのオーケストラの立たせ方も何だかなぁ。
あのプレイヤーだけを立たせるか?と
私は驚いたもん。
(だって、ソロが巧かったかと言うと
いや、一応、ちゃんと演奏したが
フレーズの解釈の点で私とは相容れないところが)
しかも、カーテン・コール2回目で
またもや同じプレイヤーを立たせて
プレイヤーが戸惑ってるじゃないの。
何かオーケストラ内部で政治的絡みでもあるのか、と
(あいつはうまく立ててやらないといかん・・・とか)
ついつい邪推してしまった(根性悪です、すみません)
隣の年配カップルも、かなりのクラオタらしいが
ちょっとしたミスのところで
「ほら、ミスった」とか
演奏中に、コソコソと小声で呟くのは止めて欲しかったわ。
まぁ、それがクラオタの醍醐味なのかもしれないが(笑)
太陽が落ちると少し気温も下がり
夏の夕暮れの中で
(コオロギの鳴き声はもう私の耳は慣れてしまい
完璧に無視できるようになった (^^)v)
リヒャルト・シュトラウスの最後の4つの歌と
ブラームスの交響曲4番というプログラムの選択は
雰囲気には、バッチリと合っていた。
明日もまだ晴れて暑くなりそう。
例年の国立オペラ座オープン・ハウスで
バレエのレッスン見てからグラーフェネックに向かう予定の
懲りない私に
どうぞ1クリックをお恵み下さい。