ブレーメン・ドイツ室内フィルハーモニー + パーヴォ・ヤルヴィ 第一夜

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    Musikverein Großer Saal 2018年11月29日 19時30分〜21時40分

    Die Deutsche Kammerphilharmonie Bremen
    指揮 Paavo Järvi
    バイオリン Christian Tetzlaff

    Joseph Haydn (1732-1809)
     Symphonie D-Dur, Hob. I: 101, „Die Uhr“
    Wolfgang Amadeum Mozart (1756-1791)
     Konzert für Violine und Orchester G-Dur, KV 216
    Franz Schubert (1797-1828)
     Symphonie Nr. 6 C-Dur, D 589

    ウィキによる日本語訳の長さには驚くが
    ブレーメン・ドイツ室内フィルハーモニー管弦楽団と
    日本でも大人気(だと思う)のパーヴォ・ヤルヴィのコンサート。

    プログラムだけ単純に見れば
    この北ドイツ人、ウィーンに喧嘩売ってんのかい?
    と思うかもしれないが(笑)

    いや、もう、素晴らしい時間だった ♡

    だってまず、音の透明感が違う。
    小編成の室内オーケストラだから
    楽友協会大ホールの響きにはピッタリ合っていて
    ハイドンから、もう私は音楽の虜(笑)

    躍動感に満ち溢れたハイドンの「時計」は
    ご存知、ベテラン作曲家ハイドンが
    腕によりをかけてロンドンの聴衆のために作曲した曲で
    遊び心いっぱいで
    聴衆を楽しませよう、という気概とプライドと
    徹底的なエンターテイメント精神がたっぷり。

    それをまた、この瀟洒なオーケストラとパーヴォ・ヤルヴィが
    サービス精神たっぷりで
    音が飛び跳ねて、ホール中に散らばって
    あちこちで、聴衆をくすぐって
    クスクス笑いながらホールの中を遊んでいるような感覚。

    もともとパパ・ハイドンのイタズラ心に満ちた曲は好きだけど
    この演奏、それに輪をかけて、むちゃくちゃ楽しいじゃないの。
    音が活き活きとして輝きながら
    バロック音楽ではあるのだけれど
    それが現代のエンターテイメントとして
    無理も無駄も気負いもないところで
    バッチリ決まっている。

    続くモーツァルトも
    誰でもどこかで聴いた事のある名曲
    バイオリン協奏曲第3番。

    テツラフのバイオリンが、これまた見事で
    大袈裟にならない適度の節制を持って
    良くも悪くも「現代的」な印象を残す。
    このオーケストラの音色やパーヴォ・ヤルヴィの音楽と
    非常に合っている。

    モーツァルトだから、と気張るところがなくて
    プレイヤーがどう感じているか、なんて
    私のようなシロウトの聴衆にはま〜ったくわからないけれど
    すごく良い感じの自然な演奏。

    モーツァルト19歳なのに
    円熟した技法で
    徹底的に聴衆を楽しませて人気を取って
    金儲けするんだ!という感じの
    すごく楽しい曲を
    そのままの形で現代に持って来て
    ほら、楽しいでしょ?と語りかけられるような気分。

    モーツァルトだって、曲が聴衆にウケて
    お金が入らないと生活がヤバイから
    そりゃ、頑張ってヒット曲の作曲に専念するでしょう。
    そうなのよ、これは(当時の)「ヒット曲」であって
    そのように演奏されてそのように聴衆が聴くのが正しい(と私は思う)。

    オーケストラと一緒にアンコールも1曲。
    テツラフのバイオリンって
    他のバイオリニストと音が違う。
    他のバイオリニストが本当に昔の楽器を弾いているのに比べると
    現代の今、この場で求められている
    正確で強くて、ホールに響いて
    それでも出しゃばらない中立的な音。

    人によっては、あまりにアクがないので好まない人もいるかもしれないが
    こういう現代的な音、私は好きです。

    後半はシューベルトの交響曲6番。
    ご存知、小さい方のハ長調。

    パーヴォ・ヤルヴィ登場したとたん
    まだ客席の拍手が止まっていないのに
    指揮棒振り下ろして、最初のあの大音響をドカン!と一発。

    いや〜、ここらへん巧いなぁ。
    エンターテイメント性、抜群である。

    シューベルトは・・・
    あ〜、私、すごく好きなんですけど
    すごく好きなんですけど
    ただ、この人の和声って完璧で凄いので
    授業で(以下省略)

    確かこの交響曲のピアノ譜の一部も
    この間の授業で使ったわ(あ〜、だから以下省略)
    ・・・いや、ちょっと悪夢なので、あまり言いたくない。

    ただ、アナリーゼは意外に出来るようになったら
    ワタクシ的にはハマる面白さかもしれない、という気はするのだが
    ただ「出来るようになる」かどうかが不明という段階で(汗)

    しかしまぁ、このオーケストラの躍動感
    音の透明さ、美しさ、節度のあるクラシックな響きに
    とことんエンターテインメントに徹した演奏って凄いな。

    ある意味、音の響きやエンターテインメントに徹した方式が
    どの曲にも共通するので
    ハイドンもモーツァルトもシューベルトも
    何だか似たような響きになって来る傾向はあるような気がするが。

    古臭いと思われがちなウィーン・クラシックを
    よくぞまぁ、ここまで(クラシックでありながら)現代的に
    当時の聴衆が受け取ったであろう喜びを
    そのままスライドして現代に持って来ました・・・みたいな
    不思議な娯楽性(しかもクラシックで上品で節度あって)のある演奏。

    パーヴォ・ヤルヴィって
    その意味では、だんだん少なくなっていくクラシック音楽ファンの
    救い手になる可能性があるんじゃないだろうか。
    クラシックはインテリの金持ちだけが聴いていれば良い、というような
    オレさまの音楽を聴け!というタイプの正反対で
    自分の音楽が名人芸というか普通の人の達しないところに達していて
    自分の世界だけに聴衆を自動的に引きずり込んでしまう指揮者でもなく

    両腕広げて
    ほら、みなさん、
    僕たちの胸に飛び込んで来て下さいよ。
    何も気取る事、ありませんよ
    音楽って楽しいじゃないですか、ねっ

    とか言われているような気分(妄想爆発中)

    このオーケストラと指揮者、バイオリニストって
    その意味では
    楽友協会で、ただ一方的に音楽を聴かせた、というよりは
    まさに聴衆に歩み寄って
    音楽で語りかけられているような温かみがあったなぁ。
    他の、いわゆる超一流オーケストラではあり得ない現象ではないだろうか。

    ブレーメン・ドイツ室内フィルハーモニー管弦楽団は
    本日が初日で、テツラフと組んで
    ハイドン・モーツァルト・シューベルトの毎日日替わりで
    明日・明後日とコンサートがある。

    ・・・もちろん全部行く予定なので
    また明日は全然違う事を書くかもしれない(予防線を張っておく)

    いやしかし、こうやってバレエとかコンサートに行っている時間に
    一緒に学業を始めた若い学生たちは
    どんどん演習やって論文書いて、第2専攻取って
    ラテン語も習得して、学問を究めて行ってる・・・

    んだけど、まぁ、ゆっくりやろう
    ボケるか金が尽きるかまで
    まだ数年ある事を祈りつつ
    帰宅してからシェーンベルクと格闘している私に
    どうぞ1クリックをお恵み下さい。



    何で12月初めに3人のチームでシェーンベルクの発表を選んだかと言うと
    分析対象として与えられたピアノ曲が
    たった30秒ほどで終わる(楽譜1ページ)という理由だけだったりする・・・(汗)

    国立バレエ「シルヴィア」5回目

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      Wiener Staatsballett/Wiener Staatsoper 2018年11月28日 19時30分〜22時

      SYLVIA
      Ballett in drei Akten
      振付 Manuel Legris nach Louis Mérante u.a.
      ドラマツルギー・リブレット Manuel Legris, Jean-François Vazelle
      nach Jules Barbier und Baron Jacques de Reinach
      音楽 Léo Delibes
      舞台・衣装 Luisa Spinatelli
      照明 Jacques Giovanangeli
      指揮 Kevin Rhodes

      シルヴィア Kiyoka Hashimoto
      アミンタ Masayu Kimoto
      オリオン Robert Gabdullin
      エロス Richard Szabó
      ダイアナ Madison Young
      エンデュミオン Zsolt Török
      妖精 Scott McKenzie
      ナイアド Rikako Shibamoto
      2人の狩人 Ioanna Avraam, Alice Firenze
      農民の娘 Anita Manolova
      農民 Arne Vandervelde
      羊飼い Nicola Barbarossa
      ヌビアの奴隷 Natalya Butchko, Sveva Garguilo

      サターンたち Marcin Dempc, Marian Furnica, Hanno Opperman, Gaetano Signorelli
      樹の精 Nicola Barbarossa, Andrés Garcia Torres, Trevor Hayden, Géraud Wielick
      ドリアード Natalya Butchko, Sveva Gargiulo, Fiona McGee, Isabella Lucia Severi
      ナイアド Elena Bottaro*, Eszter Ledán, Anita Manolova, Xi Qu
      狩人 Elena Bottaro, Venessza Csonka, Gala Jovanovic, Oxana Kiyanenko
      Zsófia Laczkó, Eszter Ledán, Katharina Miffek, Suzan Opperman*, Xi Qu,
      Alaia Rogers-Maman, Iulia Tcaciuc, Chiara Uderzo
      ウエスタの乙女 Marie Breuilles, Laura Cislaghi*, Alene Klochkova, Flavia Soares
      農民の娘たち Emilia Baranowicz, Natalya Butschko, Fiona McGee,
      Joana Reinprecht, Isabella Lucia Severi, Oksana Timoshenko,
      Céline Janou Weder, Beata Wiedner
      農民たち Giovanni Cusin, Marat Davletshin, Trevor Hayden, Igor Milos,
      Kamil Pavelka, Tristan Ridel, James Stephens, Navrin Tunbull
      ヌビアの奴隷たち Suzan Opperman, Xi Qu, Alaia Rogers-Maman,
      Rikako Shibamoto, Chiara Uderzo, Céline Janou Weder

      Wiener Staatsballett
      Jugendkompanie der Ballettschule der Wiener Staatsoper
      Orchester der Wiener Staatsoper

      同じキャストの11月24日の公演は観られなかったのが残念だが
      橋本清香ちゃんと木本全優クンのリアルご夫婦のカップリングに
      リッチーがエロス神、ダイアナにマディソン、妖精の親玉にスコット。

      最初のシーンはマディソンとエンドュミオンのゾルト。
      いや〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん!!!
      マディソンが美しい。
      美しすぎる!!!!

      衣装も似合うし、実にキュートでありながら
      その威厳は失わず
      ゾルトとのパ・ド・ドゥでも演技は疎かにせず
      体幹がしっかりしていて
      手足がのびのびと優雅に動き

      もう、そこだけ空間が違うというか
      1シーンごとに、バロック絵画を見ているような

      いや、バロック絵画じゃないな。

      ヴェネツィアの美人画
      ティツィアンの初期作品
      ジョルジョーネの女性の肖像
      ティントレットのスザンナの水浴(これ好きなんです)
      ヴェロネーゼのルチアとか

      そこらへんの、艶々の色っぽい美人画が
      そのまま舞台に出現している。

      何だったらクリムトのサロメでも構いませんが(笑)
      ベルベデーレにあるサロメはタッチがちょっと柔らか過ぎるから
      クリムトなら初期作品で
      美術史美術館の中の壁画か
      ブルク劇場のロビー天井画のイメージを思い浮かべて下さい。

      うおおおおお・・・
      いや、ケティだって良かったですよ?
      でも、鉄壁の処女の初々しさというか神々しさというか
      ケティだとどう見てもお姉さんか
      ハイスクールのハイミス女性教師(←流行遅れのバロック的表現)に見える。

      マディソンは、まさに絵画的神話の世界そのままなのである(断言)
      いやもう、あまりのキュートさ、美しさ、神々しさに目が眩んだ。

      ナターシャだってキュートだが
      あの子は小悪魔的な、自分で自分の魅力は知ってるもんね、という
      時々ドヤ顏(それでもキュートだから許す)だが
      マディソンはドヤ顏にならなくて
      憂いに満ちた美人で、足さばきも実に美しく
      あああ、もう、あのダイアナ見ただけで満足で天国の気分。

      第一幕のナイアドは梨花子ちゃん。
      ポードブラが柔らかで美しく、見栄えがする。
      とてもキュートでチャーミング。
      もともと「可愛い系」の顔立ちで
      ちょっとアイドルみたいな印象を与えるけれど
      スコットの妖精との絡みも、とても可愛らしい ♡

      スコットなんだけど
      妖精の親玉のメイクは、顏に黒の線をバリバリ書くので
      いつもの童顔の可愛いフェイスは見えない代わりに

      踊りが大きい!!!!

      いや、ビックリした。
      スコットって小柄なダンサーだから
      ソロの多い妖精の親玉だと映えないんじゃないだろうかと思ったら
      とんでもない。
      小柄な体で自由自在に動き回り
      しかもジャンプの着地のキメがばっちりで
      身体の安定感が半端じゃない。
      ・・・いつの間に、こんなに巧くなったの、このダンサー。

      清香ちゃんのシルヴィア
      技術的には完璧で、非の打ち所がない。
      美人だしスタイル抜群だし
      技術完璧で、身体のラインが美しい。

      ・・・で惜しむらくは完璧すぎて「個性」が出ない。
      ほら、ブスってそれなりに目立つけれど
      本当の美人って、あまりに全体のバランスが取れすぎていて
      全然目立たない事ってあるじゃないですか。

      それはそれで持ち味ではあるのだけれど
      アーティストとして見た場合
      あまりに完璧過ぎるのも、問題なのかなぁ・・・と
      つくづく考えてしまう。
      あまりにお人形さんみたいで作り物めいてしまうのだ。
      これはもう、アーティストの持っている個性が
      そういうモノである、という事しか出来ないので
      本人の演技力や能力や努力の問題ではない。

      う〜ん、みんなから羨ましがられるようなスタイルや顔立ちと
      才能もあって、いや、それだからこその印象なんだろうなぁ。

      木本クンは、素朴な羊飼いの役はとても合っている。
      いつもながらの優雅なダンスで
      この人も完璧にパをこなすし
      スタイルのバランスが抜群で、実に美しい。

      今回はオリオン役がローベルトで
      ローベルトも優雅な王子さまタイプなので
      ちょっとアミンタとオリオンのキャラが被った感じ。

      オリオンのローベルトは、ともかく上品なオリオンで
      ワイルドさがなくて(それも持ち味)
      いつもローベルトのこのダンス見るたびに
      マノンのデグリューを連想してしまうのはいったい何故なんだろう。
      (ワイルドというより、徹底的にM系で
       女王さまに跪いて、ひたすら愛を乞う、というダンスに見える)

      清香ちゃんと木本クンのパ・ド・ドゥは
      見事にぴったり息があって
      さすがにプリンシパル同士だなぁ、とうっとりした。
      (というより、この2人、どちらかがミスしたりしたら
       その後の家庭争議に発展してしまうような気がするので
       そりゃお互いに気が抜けないでしょう(笑))

      リッチーのエロス神は・・・・
      う〜ん (・・;)
      これはちょっとミスキャストかも。

      リッチーの身体は小柄だが均整が取れていて非常に美しい。
      演技もできるしダンスも巧いベテランのダンサーなのだが
      ダンスが、あまりにキレが良過ぎるのである。

      優雅なダンスの木本クンとローベルトの間に入ると
      リッチーのダンスのキレの良さがますます目立つので
      例えば、妖精の親玉とか
      ちょこまか動く手下のコミカルな役だったら違和感はないのだが

      どうしても神さまには見えない。
      オーラがない、と言ったら失礼なんだけど
      リッチーって巧いくせに、なんだか地味、というダンサーで
      しかも動きの速度が早い(だからキレが良い)ので
      エロス神の堂々たる威厳がないのである。
      手下の天使が神さまに化けて出てきちゃいました、とか
      パロディっぽく見えてしまうので・・・ごめんねリッチー。

      今回のキャストで、ともかく最も光っていたのは
      間違いなくマディソンである。
      輝くようなオーラを撒き散らかして
      処女なのに女神で堂々としていて
      ギリシア神話の世界を、そのまま異次元で舞台上に出した。

      他のシーンは
      はっきり言って、神話の世界でもなければ
      別次元の話でもなくて
      善かれ悪しかれ、日常次元を越えるものではなかったと思う。
      (私の友人が見事な読み替えを行なったのだが
       ここに書けないのが残念(笑))

      ダンサーの持ち味によって
      様々に解釈を変えられる演目って好きだなぁ。
      シルヴィアは今年はこれにて終演。
      次の公演は来年1月。

      12月にはペールギュントの再演があり
      その後はくるみ割り人形が続く。
      多少コンサートと重なってしまう日はあるのだが
      それでも頑張ってバレエに通うぞ、という
      思い込んだら一筋の私に
      どうぞ1クリックをお恵み下さい。



      チェコ・フィル + ビシュコフ 2回目

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        Musikverein Großer Saal 2018年11月27日 19時30分〜21時10分

        Tschechische Philharmonie
        Singverein der Gesellschaft der Musikfreunde in Wien
        指揮 Semyon Bichkov
        ソプラノ Christiane Karg
        アルト Elisabeth Kulman

        Gustav Mahler (1860-1911)
         Symphonie Nr. 2 c-Moll

        昨日、2回目のコンサート聴いたら
        印象が変わるかも・・・・と書いて

        本当に変わったのには、ちょっと驚いた。

        感受性欠乏症なのと
        更年期・・・はとっくに過ぎたが(爆笑)
        老齢なので感情的な上下が激しいのである。
        (自分の欠点を書いていると、イヤな気分になるなぁ、わっはっは)

        まずはオーケストラの昨日の不安定な管楽器プレイヤーたちが
        昨日とは比べものにならない名人芸で
        迫力たっぷりの美しい音を聴かせてくれたこと。

        最初からそう演奏しろ、とか思ってしまうが
        プレイヤーだって人間だし
        天候とか気温とかホールの関係とかあって
        その時々によっての演奏が違うのは当たり前。
        だからこそ、ナマのコンサートは楽しいのだ、うん。

        昨日より周囲のマナーが悪くなかった。
        椅子の立ち上がりガッタン音や、軋み音は
        もちろん完全には避けられないものの
        昨日のように、演奏中、ず〜〜〜〜〜〜っと雑音ありの
        拷問のような時間ではなく

        時々椅子のガッタン、時々ピアニッシモでの咳き込み
        ついでにピアニッシモの時に
        時計かスマホかカメラのアラーム音が2回入ったけれど
        それでも昨日よりず〜〜〜〜〜〜っとマシ。
        お陰で、多少なりとも集中して聴けたのはありがたい。

        基本的には昨日と同じく
        ドラマチックな要素たっぷり
        後期ロマン派の濃厚な香りがホール中に漂い
        ワーグナー的な麻薬っぽい雰囲気が圧倒的で

        ハリウッドスター勢揃い
        超大型予算付き
        超豪華特撮映画
        「復活」

        というようなモノの劇伴というイメージはあるのだけれど
        昨日1回目に聴いた時の
        作り物じみたイメージは耳慣れして来てかなり薄れ
        すごく良い感じで「感動強制」されて心地良かったりする。

        マーラーは大音響のこけ脅し音楽、との主張を譲らず
        絶対にホールで聴かない知り合いもいるけれど
        (ついでにこの人はブルックナーもリヒャルト・シュトラウスも嫌いで
         唯一、モーツァルトが神さまという人なので・・・(苦笑))
        確かに、大音響で聴衆を圧倒する、というところはあるにせよ
        だったら、ロックやプログレはどうなんだ、って話だしね(いや違うか)

        だってマーラーは大音響で聴衆を圧倒したかったんでしょ、きっと。
        この曲の初演は1895年ベルリンで
        ブルーノ・ヴァルターの記録によれば
        そのスケールの大きさとオリジナリティで圧倒的だった、らしい。
        楽友協会では1907年にマーラー自身が指揮台に立って
        この曲の演奏をしている。
        やっぱり、ホールに居る全員が難聴になりそうな
        こういう大音響が響き渡ったのかなぁ・・・

        こんなひねくれた老女になる前の
        高校生だか大学生だかの時に聴いていたら
        もしかして人生観、変わったかもしれない(まさか・・・)

        指揮者とオーケストラの渾身の演奏もだけれど
        楽友協会合唱団の巧い事と言ったら。
        このコーラス、いつもの事ではあるのだが
        あまりの素晴らしさに腰が抜ける。

        いくら椅子が軋ろうが
        (コーラス始まると、椅子から身を乗り出す人が多い=椅子が軋る)
        アラーム音がホール中に響き渡ろうが

        あの神秘的なコーラスが入って来て
        そこからアルトとソプラノの、限りなく澄んだ
        温かい美声が立ち昇ってくると

        理屈とかじゃなくて
        最も原始的な身体的感覚を刺激されて鳥肌が立つ。

        曲そのものの宗教的テーマは
        あくまでもヨーロッパ宗教の伝統的音楽要素が強いから
        日本の文化土壌にどっぷり使って生きて来た身としては

        トランペットが鳴ったら天国とか
        フルートのソロは彼岸の世界とか
        オルガンで人類救済とか

        いやちょっと誤解があるかもしれないけれど
        一般的ヨーロッパの文化土壌に親しんでいる人とは
        直感的な受け取り方は全く違うのだろうが
        脳生理学的観点からの感動のポイントというものが

        あるんだろうか???? (O_O)

        「鳥肌」研究はウチの学部の学部長の専門なのだが
        文化的背景による音楽の感動のポイントの差って
        実験で特定できるものなんだろうか。
        いや、またもやくだらん事を・・・f^_^;

        日本人の文化的背景を持った者としては
        ウサギは美味しいけれど
        志を果たして金持ちにならないと帰ってきてはいけない、という
        日本のママさんコーラスの皆さまが、こちらで必ず歌われる
        こちら在住で志を果たしていない私には、グッサリ刺さる曲が
        心の傷口、劣等感、敗北感を刺激して(無駄な)反省を促すのだが
        ヨーロッパ人がこれを聞いても
        意外に「何言ってるの、この人」ってなるのかなぁ・・・と

        マーラーの交響曲2番と全く関係ないところに
        くだらない妄想と連想が飛ぶ(ボケ)老女の私に
        どうぞ1クリックをお恵み下さい。



        うさぎが美味しい歌は
        仕事でコンサート・マネージメントをやっていた時には
        必ずママさんコーラスのレパートリーで聴いていましたが
        その度に涙ぐんでいたのは上記の理由によるのであって
        皆さんの歌声のあまりの素晴らしさ(以下省略)
        あわわわわ・・・いやコンサート・マネージメントすごく楽しかったです。
        そういう仕事が出来なくなったのは、ちょっと残念かも(笑)

        チェコ・フィル + ビシュコフ 1回目

        0
          Musikverein Großer Saal 2018年11月26日 19時30分〜21時10分

          Tschechische Philharmonie
          Singverein der Gesellschaft der Musikfreunde in Wien
          指揮 Semyon Bichkov
          ソプラノ Christiane Karg
          アルト Elisabeth Kulman

          Gustav Mahler (1860-1911)
           Symphonie Nr. 2 c-Moll

          数年前までは楽友協会からは完璧に無視されていたチェコフィルだが
          ここ数年はチクルスの一環で呼ばれるようになって
          それだけの実力を備えたオーケストラだと思う。

          しかし今日は 書きにくい。
          非常に書きにくい・・・オーケストラが下手くそだった訳じゃないのだが。

          いや、管楽器はむらがあった。
          名人も居るけれど、とんでもないミスがあったり
          音程が悪かったりして、かなり不安定でドキドキ。
          演奏されたのが、管楽器の出来・不出来が曲を左右するマーラーだから
          ますます目立ったのかもしれないが。

          最初から、ともかく、何これ?という
          飛び跳ねるテンポの
          垢抜けなくて泥臭い、軍隊音楽そのままですか、という行進曲。
          しかも、その表現の荒い事。
          荒いだけに、とことんドラマチックにキメてくる。

          劇的というか、ともかく表現が大袈裟。
          指揮者のビシュコフは最初から泣きそうな顔で振ってるし
          ロシアの、徹底的に、お涙頂戴大河ドラマ的な
          とことん感情的に振り回される表現が目一杯。

          スラブ系の、いったん火がついたら止まらないようなオーケストラで
          ガリガリ目一杯音量を出すぞ、という低弦の迫力を伴って
          弦そのものは、柔らかくて美しい響きを持っているのに
          それに逆らうような音響がてんこ盛り。

          良い悪いというのは別で
          確かにマーラーの埋葬行進曲なんて
          昨今の都会的洗練を徹底的に出してくるオーケストラと指揮者だと
          ちょっと物足りないくらい
          本来は、もっと垢抜けない、ワイルドな魅力に満ちたものなのかもしれない。

          そのワイルドさが、とことん前面に出て来て
          後半になればなるほど
          どんどん音量も増してくる。

          うわあああ、楽友協会大ホールだよ
          その音量、ちょっと耳を塞ぎたくなる・・・
          なのに、その大音響がともかく続いて続いて続いて
          聴覚も多少麻痺してくるんじゃないか、という音響。

          こういう演奏って
          コンツェルトハウスなんかだと
          もう少し、あっさりした感じで聴こえてくると思うのだが
          ホール一杯に鳴り響く楽友協会の大ホールでは
          ロックコンサートのごとく
          音量で聴衆を圧倒する、という感じになるのは否めない。

          ただ、ご存知の通り
          マーラーは強弱の差も激しくて
          鼓膜を破りそうな大音響の後に
          この上もなく静かなピアニッシモもやって来るのだが

          大音響の時に椅子をガッタン言わせている観客も多いし
          ピアニッシモの時には
          身体を動かすだけで出る椅子の軋り音が
          あちこちから響いて来る。

          コンサートの途中でホール中に響き渡るような
           椅子をぶっ倒す音とか
           間断なく聴こえてくる床や椅子の軋り音とか
           手元のスマホを床に落とす音とか(ホール中に響きます)
          楽友協会大ホールの音響の良さは、時々、演奏中には凶器になる。

          最近、コンツェルトハウスが多かったから
          ますます雑音が気になって仕方がない。

          周囲の雑音はともかくとして
          だんだんわかって来たのは

          これ、マーラーじゃなくて
          ワーグナーじゃないの?

          繰り返すが良し悪しの判断は出来ないし
          これは批評でもなく、批判でもなく
          私のあくまでも個人的な主観的印象を
          自分の記憶のために書いているだけなので
          チェコ・フィルの悪口でもビシュコフへの批判でもない。

          何だか途中から
          クラシックのコンサートに来ている、というより

          映画館で「アポカリプス人類最後の日」とかのタイトルの
          特撮技術を詰め込んで予算を潤沢に使って作られた
          ひと昔前のハリウッド映画でも見ている気分になって来た。

          スタッフが最強の技術を使って
          最大の予算を使って作成した映画なので
          プロモーションのセリフも
          これ見て感激しなかったら、あなたは人間じゃない
          ・・・みたいな感じで

          感動の強要というか・・・
          だから、ワーグナーっぽいんだってば。

          感激しろ、感動しろ、と、ずっと言われ続けると
          イヤイヤ、と反射的に拒否してしまう体質で
          人間性にも感受性にも欠けているので(開き直り)
          感激・感動すべきなのだろうが
          そのあまりに大袈裟な表現に、ちょっと辟易する。

          それがマーラーの持っている「嫌味」な部分から来るのか
          (あっ、マーラー・ファンの皆さま、ごめんなさい!)
          チェコ・フィルのワイルドな音だったのか
          ビシュコフの劇的表現だったのかは不明。

          クルマンのアルトの声は素晴らしかった。
          本当にこの歌手、今、マーラー歌わせたら
          世界の中でもベストに入るんじゃないだろうか。
          その美しさは筆舌に尽くし難いし
          マーラーの持っていただろうと思われる
          天国のイメージ?を最も具体的に聴かせてくれる声である。

          カルグのソプラノも澄み渡った伸びのある声で
          この2人の歌手は、大袈裟になる事が一切なく
          気張らず、出しゃばらず
          ストレートに、そして伝統的なクラシック・スタイルで
          マーラーの2番の最後を飾ってくれた。

          実は同じプログラムを明日も聴きに行くので
          (チクルスで持ってるんだもん・・・)
          また印象が変わるかもしれないし
          明日は私も素直になって
          ああ、感動しました、とか
          全く反対の事を言い出す可能性もあるので
          読者の方々は
          私の世迷い言を信じてはいけない(断言)

          さて、明日はどういう印象になるんだろう
          ・・・・というより
          管楽器のミスと音程、明日は直ってるんだろうか?
          という事が気になる
          根性悪の私に
          どうぞ1クリックをお恵み下さい。



          確かに途中で地獄を見せるような
          ものすごい気味の悪さの音響が空間を支配していたからなぁ。
          ビシュコフの意図的なものだとは思うけれど
          天国と地獄をさまよっているような演奏だったので
          特撮映画のイメージさえ、私の中から払拭してしまえば
          実はすごい演奏だったのかもしれない・・・

          プレルジョカージュ「ロメオとジュリエット」

          0
            Festspielhaus St. Pölten 2018年11月25日 16時〜17時45分

            Ballet Preljocaj. Tonkünstler

            Roméo et Juliette

            振付 Angelin Preljocaj
            舞台 Enki Bilal
            衣装 Enki Bilal, Igor Chapurin
            照明 Jacques Chatelet
            サウンドデザイン Goran Vejvoda
            音楽 Sergej Prokofjew (Roméo et Juliette, Opus 64)
            ライブ音楽 Tonkünstler-Orchester Niederösterreich
            指揮 Garrett Keast

            ロメオ Laurent Le Gall
            ジュリエット Léa De Natale
            ティーボルト Marius Delcourt
            メルキューシオ Leonardo Cremaschi
            ベンヴォーリオ Tommaso Marchignoli
            乳母 Théa Martin, Anna Tatarova
            Angela Alcantara, Nicholas Baffoni, Déborah Casamatta, Virginie Caussin,
            Araceli Caro, Alice Comelli, Bastien Gache, Agnès Girard, Solène Hérault,
            Florette Jager, Kelvin Mak Cheuk Hung, Víctor Martínez Cáliz, Igli Mezini,
            Anne-Céline Pic-Savary, Simon Ripert, Antonio Rosati, Aaron Smeding

            アンジュラン・プレルジョカージュと言えば
            バレエ・ファンで知らない人はいないだろうが
            ウィーンの国立バレエ団では、なかなか取り上げられない。

            というより
            唯一、監督のルグリが、ヌレエフ・ガラで
            自分でル・パルクの1シーンを踊る時以外
            ウィーンでは観た事がない。

            サンクト・ペルテン・祝祭劇場のプログラムで
            プレルジョカージュの作品を上演するのを知った時には
            ちょっと飛び上がって
            本当は24日も行きたかった(2日公演)のだが
            24日の記事に書いた通りの状況で
            泣く泣く諦めて1公演のみ。

            ロメオとジュリエットのバレエであれば
            ウィーン国立バレエ団のレパートリーは
            ジョン・クランコ版。

            この振付は、本当にリアルでロマンティックで
            オペラ座オーケストラの音楽と一緒に鑑賞すると
            そのたびごとに、最後は号泣。

            あ〜、そう言えば、最近は
            フォルクス・オーパーでのボンバーナ振付のロメオとジュリエットもあった。
            ただし音楽はベルリオーズだったが。

            プレルジョカージュのロメオとジュリエットは
            もともと1990年に振付られた作品だが
            ・・・ううう、素晴らしい!!!!

            全然古臭い感じはしない。
            というより
            クラシック・バレエは根本にあるけれど
            最初から最後までモダンで
            その劇的な表現力の凄まじさには圧倒される。

            モダン・ダンスなので
            プロコフィエフの音楽も、かなり手が加わっているし
            クランコ版とは違うシーンで使われていたり
            テープによる電子音楽が入ったりもする。

            ストーリー構築も違っていて
            メルキューシオの死はあるけれど
            ティーボルトは死なないし
            (だから何故ロメオが追放されたのか、ちょっとわからん)
            乳母は白黒の面白い衣装で2人出てくる。

            表現力がスゴイ、と書いたけれど
            この演目、最初から暴力シーンの連続。

            まぁ、モンターギュとキャプレットの喧嘩だから
            どうしても暴力シーンは避けられないのだが

            もちろん、見事なバレエで
            チャンバラ映画の殺陣のごとく
            暴力を実にリアルに再現してはいるんだけど
            あまりにリアル過ぎて・・・

            しかし、キャプレット家が上品で冷たい格上のお金持ちで
            モンターギュ家は貧乏貴族で教養なくて粗暴ってイメージは
            ティーボルトという、あの登場人物の冷血さから来ているんだろうか?

            この演目でも、キャプレットは上から下まで真っ黒の
            軍人さんか暴走族のような衣装で
            一糸乱れない軍隊のようなダンスだったのに対し

            モンターギュのロメオ、マーキューシオ、ベンヴォーリオは
            (モンターギュはこの3人以外、舞台には登場しない)
            カラフルな衣装で、しかもあちこちが裂けていて
            貴族どころか、かなりの貧民層というイメージが強い。

            最初の暴力シーンから、メルキューシオとの決闘と
            ティーボルトの死の音楽が使われていたのでギョッとしたが
            ティーボルトは死なないし
            この最初の場面ではメルキューシオも死なない。

            キャプレットが黒服の軍隊調なので(衣装もダンスも)
            パーティにはどうしても見えないけれど
            まぁ、ロメオとジュリエットが出会うシーンは
            やっぱりあれは一応パーティなんでしょうね・・・

            この2人、会ったとたんに恋してる・・・

            周囲がそのまま凍りついた時間の中で
            最初の出会いから
            抱きついてキスして身体中を接触して
            すごいリフトを何回も繰り広げる。

            うわああ、若いって素敵(いや違う・・・)
            2人ともお互いの肉体の虜(いや違うかも・・・)
            15歳くらいだと、ああいう劣情に駆られるものですかね(いや違うかも・・・)

            クランコ版では、溢れる優しさとロマンティックさに満ちた
            バルコニーのシーンが
            プレルジョカージュの振付だと

            まずはバルコニーというより、家を取り囲む塀(城塞っぽい)の上で
            見回りをしている軍隊服の男性を
            ロメオがぶっ殺すところから始まって

            ロメオとジュリエットは、バルコニーなしの中庭で会う。
            会ったとたんにシャドー・ダンスで激しい動きを繰り広げ
            その後は・・・

            あそこまでやっちゃうと
            その後のベッドシーンはカットかなぁ、と思っていたら
            ティーボルトの死はないのに
            ちゃんとベッド・シーンがあった。

            あ〜、しかも、そのシーン、ものすごく長いんです。
            長い上に、なんかむちゃリアルなんです。

            まぁ、あれは、ナニの後の気だるい雰囲気から始まるシーンだが
            鏡を4つ使って様々な角度から見せてくれて
            ロマンティックと言う捉え方もあるだろうし

            一応、バレエだから
            凄まじくも美しいリフトとかもあるし
            バレエの動きとして見れば、モダンで美しいのだが

            他人のセッ○ス・シーンを延々と見せられているようで
            ちょっと、いや、ものすごく、かなり気恥ずかしい気分。

            芸術表現がリアリティを超えてリアルになっちゃう事ってあるじゃないですか。
            いや、そりゃ、そういうシーンを見て
            あらぬ想像に悶々と苦しむ私が悪いのかもしれないけど(自爆)

            ロレンツォ神父は登場しないけれど
            赤いマントで死を象徴するシーンがあって
            ジュリエットが、恐れながら、赤いマントを羽織って
            仮死するシーンがある。
            これは実に巧く作ったなぁ、と感心した。

            最後のシーンで、ジュリエットの死体と絡むロメオ。
            うわあああ、これはスゴイ。
            ジュリエット役は死体の動きをリアルに表現していて
            ジュリエットの身体を、ロメオが容赦なく振り回す。

            ジュリエットの死体との激しい絡みの後
            持っているナイフで切腹するロメオ。

            いや、これ、本当にジュリエットの「死体」の上で
            ナイフで腹を切るんだもん。
            それまでリアルだったのに、それは一体何なんですか?!

            ジュリエットの下半身に被さるロメオをそのままにして
            目覚めるジュリエット。
            最初はロメオを見て喜んで
            これも激しくロメオの身体を揺さぶるのだが

            今度はロメオが死体なので
            ううう、この死体の動きが、また、異様にリアル・・・
            更には、死体のロメオを椅子に置いて
            離れたところからロメオの死体に向かってジャンプして
            床に落ちるという
            これもヘンにリアルな振付が続けざまに3回。

            なのに、床に落ちたナイフで
            ジュリエットは手首を切って、そこで死ぬ・・・って

            それまでのリアルさは何だったんだ・・・(唖然)

            バレエがリアルである必要は全然ないのだが
            ラブシーンとかのあまりの迫力の後に
            (メルキューシオの撲殺シーンはリアルだったが
             あれはメルキューシオが勝手に一方的に喧嘩売ってるとしか見えなかった)
            ロメオとジュリエットの死が
            ちょっと笑っちゃう処理だったのは納得いかん(謂れのない文句)

            インターネットの世界ってスゴイと思うのだが
            Youtube にこの作品、全部アップされている。

            多少、キャプレットの3人の衣装が違っていて
            今回は最初から上着はなかったのと
            ジュリエットが靴下履かず、最初から最後まで裸足で
            最後のフィルムでの胸を強調した衣装じゃなくて
            もっと清楚な白の衣装だった。

            塀の上の見回り役は犬を連れているが
            今回もお犬さま登場。
            カーテンコールの時に大喜びしてワンワン吠えていたのがキュート(笑)

            全部で2時間近くあるので
            よほどおヒマな方はどうぞ。
            画像のクオリティはあまり良くないのだが
            振付の素晴らしさと、ちょっと気恥ずかしいラブシーンは堪能できます。



            日曜日午後公演とあって
            子供連れ(あんなもん、子供に見せるなっ)も多く
            しかもギャラリー空き席が多くて
            プレルジョカージュって、あまりオーストリアでは
            知られていないんだろうなぁ、と、ちょっと残念。

            今回のキャスト、ティーボルトも冷血っぽさが凄かったし
            ロメオは、ただの地味なお兄ちゃんに見えるんだけど
            ジュリエットとのデュエットで完璧に輝いていたし
            ティーボルトの洒脱さと運動神経にはうっとりしたし

            ともかく、人間の身体能力を使って
            ここまで劇的な表現が出来るとは(ちょっと、こっ恥ずかしいが)と
            いたく感心してサンクト・ペルテンから
            小雨の中、ウィーンにドライブして来た私に
            どうぞ1クリックをお恵み下さい。



            今日は朝8時からサウナに入って
            11時からの大学講堂での現代音楽のコンサートに行って
            あまりの講堂の寒さに途中で帰り
            その後、ドライブして、戻って来たので
            帰りの車、1時間ちょっとの眠さといったら・・・

            しっかり意識持って帰らねばと緊張していたけれど
            最近、体温調節が巧く行かず、睡眠障害があるので
            ロング・ドライブはちょっと怖い(本気)

            ウィーン交響楽団 + フィリップ・ジョルダン

            0
              Wiener Konzerthaus Großer Saal 2018年11月24日

              Wiener Symphoniker
              バイオリン Nikolaj Szeps-Znaider
              指揮 Philippe Jordan

              Kurt Schwerstik (*1953)
               Here & Now (2017)
              Johannes Brahms (1833-1897)
               Konzert für Violine und Orchester D-Dur op. 77 (1877-1878)
              Antonín Dvořák (1841-1904)
               Symphonie Nr. 9 e-moll op. 95 „Aus der Neuen Welt“ (1894)

              このコンサート、チクルスで持っていたので
              何の疑問もないまま行ってしまったのだが

              同じ時間に隣のモーツァルト・ホールでは
              カメラータ・ザルツブルクが
              ペーター・ルジツカとシュトックハウゼンを演奏していて

              国立オペラ座では清香ちゃんと木本クンのシルヴィア

              更にはサンクト・ペルテン祝祭劇場で
              プレルジョカージュのロメオとジュリエットという

              とんでもない日だった。
              (オペラ座の方はチケットを買ったつもりだったら
               違う日付のチケットを買っていた、という冗談でない悲しい話・・・)

              ああああ、もともとチケット持ってたとは言え
              何故、ウィーン交響楽団の名曲アワーに来ちゃったんだろう。
              と、まずは非常に失礼な事を考えていた位である。
              ウィーン交響楽団の皆さま、ジョルダンさま、ごめんなさい。

              シュヴェルツィックは、もともとホルン奏者として
              トーンキュンストラーとウィーン交響楽団で活躍していた。
              (知らなかった(恥))
              例年ヘルデン・プラッツで行われる
              終戦記念コンサートの序曲としてウィーン交響楽団のために作曲された曲。
              シュヴェルツィックの音楽はクラシックに戻ろう的な流派なので
              かなり聴きやすいし
              序曲3分なので短い。

              ファンファーレ的な要素ももちろんあるけれど
              終戦記念=マウトハウゼン強制収容所解放という要素もあるので
              パッパラパーの華やかさはなく、思索的な静けさが入る。

              さて、またツナイダーか、とか思ってはいけない(笑)
              しかしこのバイオリニスト
              今年の楽友協会会員のプレゼントの CD もツナイダーだったし
              今、絶賛発売プロモーション真っ最中なのかしら。

              ブラームスのバイオリン協奏曲と言ったら名曲中の名曲で
              こちらも、もう、様々なバイオリニストで何回聴いたかわからん。
              それに私、バイオリンの良し悪しはよくわからん。

              ツナイダー、巧いし、ダイナミックだし
              マッチョかと思うと優しくなるし
              でっかいお兄ちゃんが(体格は良いし背が高い)
              小さなバイオリン(ツナイダーだと小さく見える)を
              肩にちょこんと置いて
              えも言われぬ美音を出しているのを見るのも楽しい。

              アンコールにオーケストラとバッハのカンタータ(編曲版)を弾いたが
              聴衆にドイツ語で挨拶したり
              カーテン・コールに何回も呼び出された時には
              「お腹すいた・・・食事したい」みたいな物まねまでして
              もしかしたら、愛されキャラを目指しているってところかも。

              ただ、ブラームスのバイオリン協奏曲は
              演奏している方も(失礼な言い方だが)ルーチン・ワーク
              聴いてる方もルーチン・ワーク的なものがあって

              あああ、これなら隣のホールで
              カメラータがルーチンではあり得ないルジツカとかと
              格闘している方に行けば良かったかも
              ・・・と、とんでもなく失礼な事を考えていたのである。

              幕間に移動しちゃおうか、と思ったが
              幸か不幸か、幕間の時間が被さっていなくて
              隣の小ホールの方は既に後半が始まっていた・・・ちっ・・・

              仕方なく(失礼である事は承知です)大ホールに戻って
              後半はドボルジャークの「新世界より」って
              これも名曲中の名曲(げっそり)

              ただ、これが意外と良くて、ビックリした。
              確かにオーケストラにとっても指揮者にとっても
              ルーチン・ワークなのかもしれないが
              俺たちゃプロだぜ、こういう名曲、バッチリ演奏してやる
              みたいな(妄想)プロフェッショナルの矜持と気概が
              割にストレートに伝わって来た。

              今回はジョルダンの指揮もあっさり系で
              熱くなる事なく、オーケストラのバランスも良く
              一歩間違えると土臭くなるドヴォルジャークを
              かなり都会的な洗練を持って演奏していて

              そうなると、大ホールのデッドな音響が意外に良い意味で活きて来る。
              多少音量が大きくなっても全然平気だし
              プロの気概で演奏されているので
              アンサンブルぴったり揃って、粗さがなくて
              洗練された美しい音色のドボルジャークだった。

              21時30分から、小ホールでは
              Late Night というタイトルで、本コンサートの後に
              もう1つ、現代音楽のコンサートを開催しているので
              何とか潜り込もうと思ったのだが

              ドボルジャーク終わったのが21時40分・・・
              小ホールを覗いてみたが
              やっぱり Late Night は既に始まっていて入場できず。
              (雑音っぽい現代音楽は、途中入場、厳しく禁止である。
               私だって絶対にやだ)

              まぁ、身体が4つあるならともかく
              人生って、選択すれば何かを放棄しなければならない
              ・・・という事実もあるし
              ウィーン交響楽団のプロの矜持をばっちり聴かせてもらったし
              チケットも無駄にならなかったし(笑)
              比較的早く帰宅できたし
              (この間は Late Night の後、地下鉄トラブルで帰宅にえらく時間がかかった)
              その意味では良かったわ、と
              あくまでもポジティブに考える私に
              どうぞ1クリックをお恵み下さい。




              アルディッティ弦楽四重奏団+アンサンブル・モデルン

              0
                Wiener Konzerthaus Mozart Saal 2018年11月23日 19時30分〜21時20分

                Ensemble Modern - Kammerensemble
                Arditti Quartett
                Irvine Arditti / Ashot Sarkissjan / Ralf Ehlers / Lucas Fels
                指揮 Brad Ludman

                James Saunders (*1972)
                 you are required to split your attention between
                 multiple sources of information (2017-2018) UA
                  Kompositionsauftrag von Wien Modern

                Brian Ferneyhough (*1943)
                 Umbartions. The Tye Cycle (2001-2017) EA
                  Kompositionsauftrag von Westdeutschen Rundfunk, Ensemble Modern,
                  Festival d’Automne à Paris, Huddersfield Contemporary Music Festival und Wien Modern

                Wiener Konzerthaus Mozart Saal 2018年11月23日 21時45分〜22時30分

                Late night 5 : Arditti Solo
                バイオリン Irvine Arditti

                James Clarke (*1957)
                 2017-V (2017) UA

                Salvatore Sciarrino (*1947)
                 Sechs Capricci für Violine solo (1976)

                現代音楽のレジェンドと言ったら
                これはもう、間違いなくアーヴィン・アルディッティと
                彼のアルディッティ弦楽四重奏団だろう。

                私が現代音楽にこれだけハマったのも
                アルディッティ弦楽四重奏団を聴いたのがきっかけだ。

                玉石混合の現代音楽でも、アルディッティは特別で
                ハズレはない(断言)

                今回はアンサンブル・モデルンと共同で本コンサートの後
                アルディッティがバイオリン・ソロを2曲弾くという豪華なコンサート ♡

                ジェームス・サンダースの曲が笑っちゃうほど面白い。
                舞台の下手(しもて)にアンサンブル・モデルン
                上手(かみて)の前にアルディッティ弦楽四重奏団
                その後ろにアンサンブル・モデルンのパーカッションが並び
                あれ?指揮者がいない???と思ったら
                突然、テープで英語のセリフが流れて来る。

                このテープの音声に従って
                各プレイヤーが演奏したり、笛を吹いたり
                スプレーしまくったり(するんですってば(笑))
                リハーサルはしているのだろうけれど
                テープのセリフにすぐに反応しなければならない部分も多く
                プレイヤーは楽器弾いたり、脇のスプレー缶を取ったり
                かなり目まぐるしい動きを要求される。

                アルディッティ弦楽四重奏団だけの演奏部分もあるけれど
                この部分のテープ音声の指示が
                はい、アーヴィンはこれ、アルディッティの2番はあれして
                ルーカルはこれして・・・という感じで
                音声ガイドに従い(?)様々なモチーフを演奏していく様子が
                いや、失礼だけど、なんだか微笑ましいというか。

                しかも、そこまで奏者がバラバラの事をやりながら
                音楽がまとまって、「音楽」とわかる程度に和声が聴こえる。
                もちろん、時々、ストップも入るし
                作曲家の指示(テープの指示)でのまとまりがあるのだろうが
                パーカッションもサイレン使ったりベルを使ったり
                生活音もたくさん入って来て(←雑音オタクなので)楽しいの何の。

                演奏している方は緊張しているのかもしれないけれど
                どう見ても、すごく楽しくやってるような印象だし
                同じように、見ている聴衆も時々笑い声が出そうになったり
                何ともユーモアに満ちた30分。

                後半は新しい複雑性 New Complexity の生みの親
                大御所のブライアン・ファーニホウの作品のオーストリア初演。

                ファーニホウの作品そのものは
                ウィーン・モデルン現代音楽祭で耳にするチャンスも結構あったのだが
                ともかく、作品がむちゃくちゃ複雑で難しいらしい。
                以前、「現代におけるフルートの最も演奏の困難な曲」
                とか言われる作品を聴いた時に
                けっ、結局はプレイヤーの腕自慢オリンピックかよ(それでもスゴイが)
                と思ってしまった事もある。

                だってそりゃ、奏法が複雑怪奇で
                演奏家がどれ程苦労しようが、練習しようが
                私のようなド・シロートの聴衆が受け取るのは
                それが聴覚に及ぼす音波だけであって
                その音波がもたらす心理的な要因だけが大事なんだもん。
                (だから、ギターで弾いたら簡単な曲を
                 わざわざサーカス的なテクニックを使ってバイオリンで弾いたりするのも
                 実はそれほど好きじゃない)

                ところが、この The Tye Cycle という作品、凄かった。
                サイクルだから、いくつかの作品から成っていて
                途中でアンサンブルあり、ソロありのバリエーションが多くて
                退屈しないのもあるけれど

                その複雑怪奇でむちゃくちゃ難しい(らしい)楽譜をもとに
                出てくる音の素晴らしい事といったら・・・

                音色のバリエーション、テンポやメロディ的な複雑性
                いや特に、私のような音響オタクには
                ソロ楽器の目まぐるしく変わる音色がたまらない。
                (ベリオのセクエンツァを思い出したが
                 技術・音色はベリオよりずっと複雑性を増している)

                演奏時間約1時間の大曲だが
                音楽的にも、あるいは聴覚的にも次から次へと
                まるでカレイドスコープのように違う音色が出てくる。

                これだけ複雑で
                技術的にも人間の極限のような高い技術を要求される曲って
                いわゆるバロック時代のクラシックと比べたら
                リハーサルの時間も中途半端じゃないだろうし
                でも、現代音楽だからチケットは比較的安い。
                (政府から補助も出てるし、私のメイン・バンクもスポンサー)
                なんだか、すごくありがたいような気がして来る。

                ブライアン・ファーニホウご自身が会場に来ていらしたのには驚いた。
                御歳75歳。まだまだ、お元気そうである。

                さて、会場を片付けて
                21時45分からアーヴィン・アルディッティのバイオリン・ソロ。

                本コンサートでもばっちり演奏してから
                同じく複雑性のジェームス・クラークと
                特殊奏法のサルヴァトーレ・シャリーノ!!!

                鉄人アルディッティ・・・・(絶句)

                すごいなこの人
                もちろん、バイオリンの天賦の才もあるのだろうが
                ともかく、現代音楽を身体で具現しているというか
                バイオリンが身体の一部というのではなくて
                身体がバイオリンの一部になっているような感じがする。

                そのバイオリン奏法のスゴさは
                バイオリンを演奏する人でなければわからないのだろうが
                技術の多様さ、正確さから出てくる
                きっちりと計算された見事な音響には息を飲むだけ。

                シーンと静まり返った会場で
                針が落ちるような指先での弦の音まで聴こえて来て
                ああああああ、これこそ、音響オタクにはたまらない瞬間。

                繰り返して強調するが
                こういう音楽は、どんなに会場で感激しようが
                CD で聴いてはいけない。

                CD で聴いたら、ただの雑音に聴こえて来る事が多い。
                複雑で、時々、目にも止まらない速さの
                ボーイングや弓の弾き方、指での弦の弾き方などを
                視覚で捉えながら、そこから出る音(音楽ないしはただの音)を聴くのが
                現代音楽の楽しみというものである。

                その意味では、現代音楽って、実は贅沢なものかもしれない。
                もちろん、作品の出来が良ければの話だが。

                近代の演奏史では、マーラーとかブルックナーでさえも
                あるいはチャイコフスキーとかも
                オーケストラから「演奏不可能」とスコアを突き返されたケースがよく見られるが

                この新しい複雑性のファーニホウやクラークとかだったら
                もっとタイヘンじゃないか。

                でも、現代の音楽家は技術的に優れた人が多く
                というより、優れていなければ音楽家になれず
                楽譜が難しければ難しいほど、プロ意識で燃える人たちが居るらしい。
                (まぁ、シロウトのピアニストでも左手・右手で違うメロディを弾いたり
                 いわゆる、才能の無駄遣い(笑)と言われている名人芸もあるしね)

                人間の運動能力というのは、一般的には、他の動物より劣っているのだが
                こと、楽器の演奏能力とかに関しては
                近代になってから、音楽家がみんなムキになって練習するのと
                グローバル化が進んで、天才が発掘されるケースも多くなって来ていて
                それこそ、こういう楽器演奏の技術というのは
                他の運動能力で他の動物に負ける人間の最後の砦じゃないか、という気はするが
                その意味で、アルディッティ氏とかの演奏技術を目の当たりにすると
                どう見ても、私より、ずっと進化した人間がいる、とつくづく思う。
                (というより、私が全く進化していないんだわ・・・)

                自分でも何を書いているか
                だんだん訳がわからなくなって来た私に
                どうぞ1クリックをお恵み下さい。


                ウィーン放送交響楽団+グルーバー オペラ「審判」

                0
                  Wiener Konzerthaus Großer Saal 2018年11月22日 19時30分〜22時

                  ORF Radio-Symphonieorchester Wien
                  テノール Michale Laurenz (Josef K.)
                  バス Tilmann Rönnbeck (Franz, Onkel Albert, Kanzleidirektor)
                  バリトン Markus Butter (Willem, Der Gerichtsdiener, Der Advokat)
                  バリトン Martin Winkler (Der Aufseher, Ein Passant, Der Fabrikant, Der Geistliche)
                  メゾソプラノ Anke Vondung (Frau Grubach)
                  ソプラノ Ilse Eerens (Fräulein Bürstner, Die Frau des Gerichtsdieners, Leni, Ein buchliges Mädchen)
                  テノール Jan Petryka (Ein Bursche, Erster Herr)
                  バスバリトン Wolfgang Bankl (Der Untersuchungsrichter, Der Prüger)
                  テノール Matthäus Schmidlechner (Der Student, Der Direktor-Stellvertreter)
                  テノール Martin Keiner (Zweiter Herr)
                  バスバリトン Daniel Gutmann (Dritter Herr)
                  テノール Szabolcs Brickner (Titorelli)
                  指揮 HK Gruber

                  Gottfried von Einem (1918-1996)

                  Der Prozess. Oper in neun Bildern in zwei Teilen op. 14 (1953)
                  Libretto : Boris Blacher und Heinz von Cramer
                  nach dem gleichnamigen Roman von Franz Kafka

                  現代音楽祭の一環で
                  ゴットフリード・フォン・アイネムのオペラのコンサート方式上演。
                  1953年にザルツブルク音楽祭で初演された「審判」カフカ原作。

                  コンツェルトハウスの「声の響き」チクルスのファースト・コンサートでもある。
                  ゲネラル・パスの購入者は、比較的良い席をゲットする事が出来て
                  舞台に近いロジェの席。

                  ・・・は良いんだけど
                  結果的に、もしかしたらいつもの貧民席の方が
                  音響的には良かったのかなぁ、と思ってしまう私も
                  いい加減に音響で贅沢したい欲望から逃れられない(笑)

                  舞台に近い脇だけに
                  歌手の声の方向性の関係で
                  歌手の声量や方向性や飛び方やドイツ語のディクションの差が
                  あまりに激しいのである。

                  ほとんどオペラには行かないけれど
                  ヴォルフガング・バンクルは国立オペラ座のアンサンブルの中では
                  最も大きな声量(と身体)を持つベテランだし
                  マルティン・ヴィンクラーはフォルクス・オーパーで
                  確かすごい声量でジャンニ・スキッキを歌った演技達者な怪物である。
                  マルクス・ブッターも絶対に何処かで聴いて賞賛しているはず。
                  (名前が名前なので、よ〜く覚えているのだ)

                  し・か・し!!!!
                  本日の公演で、群を抜いて
                  1人だけ素晴らしすぎて
                  他の歌手が霞んでしまったのは
                  主人公のヨゼフ.K. を歌ったミヒャエル・ラウレンツである!!!

                  向こう側に並んだ歌手だったので
                  声の届き方が理想的だったのかもしれないが
                  ヨゼフ役は最初から最後まで
                  ほとんど歌いっぱなしで
                  しかも途中で高音をフォルティッシモで、という部分も数多く
                  声が疲れて来たであろう最後の方でピアニッシモとか

                  フォン・アイネムって
                  リヒャルト・シュトラウスのソプラノ苛めと同様に
                  テノール苛めが好きなのか???

                  ところがこのテノール
                  最初から最後まで声に張りがあって
                  声量も充分だし、高音も無理のない美声で遠くまで響く上
                  ドイツ語のディクションが
                  他の歌手の10倍くらいクリアで
                  端から端まで歌われているドイツ語が理解できる!!!!

                  加えて、主人公という事もあったのかもしれないが
                  他の歌手が、手元の楽譜見ながら歌っているのに対し
                  (手元の楽譜を見ると、顔が下向きになるので声の通り方が・・・)
                  ほとんど役を暗記していて
                  時々、演技とかも入れながら
                  熱くなってくると、一歩前に踏み出して
                  不条理な状況に巻き込まれた主人公を
                  バッチリと演じてくれたのである。
                  (最後に1人で出て来た時には、会場全体からブラボー・コールが起こった)

                  ティルマン・レネベックとマルクス・ブッターは
                  舞台で立っている位置が私の席に近過ぎたためか
                  あるいは、バリトンの声質が
                  オーケストレーションに埋もれるようなものだったのか
                  美声だと言うのはよくわかるのだが
                  特にマルクス・ブッターの声が、ほとんど響いて来ないし
                  前半は楽譜見ながらの歌唱で、ドイツ語もほとんど理解できなかった。

                  後半は何故か突然エンジンがかかったように
                  楽譜から顔を離して、ちょっぴり演技らしきものも入って
                  多少は声も響いて来たけれど、ちょっと残念。

                  バンクルの声がでかいのはよく知っているが
                  やっぱり、あまり響いて来ないのは
                  私の席の音響が、あの歌手の位置には理想的ではないんだろうなぁ。

                  怪物マルティン・ヴィンクラーは後半で調子を上げた。
                  もともとコミカルで妖しげな演技が出来る人だし
                  後半の工場支配人役も良かったし
                  何とも恐ろしい神父役は、ゾッとするくらいの雰囲気を出した。

                  学生役のテノールと画家のティトレリ役のテノールは
                  2人ともすごく優秀で二重丸。

                  ・・・という事は
                  このオペラって、テノール向きに作られているんだろうか???

                  あ、あと、ソプラノのイルゼ・エーレンスが
                  役ごとに、声の色を変えていて素晴らしかった。

                  原作はカフカの「審判」で
                  オペラも正統的に筋に従って行くが
                  もともと不条理で不思議な小説なので、よくワケわからん。

                  音楽はトナールで、しつようなオスティナートが使われていて
                  テキストの重要性を物語るかのように
                  歌手のメロディはほとんどなく、セクンドの上下が多い。

                  ただ、音楽そのものは、非常に劇的である。
                  コンサート方式の上演だったけれど
                  シーンごとの情景の描写や
                  周囲の音(鞭打ちの音など)
                  教会内部の空気や光の感じなどに加え
                  心理劇としての、時々、とんでもない皮肉が
                  映画音楽に近い直裁的な音楽言語で聴衆に迫って来る。

                  別に批判でも何でもないが
                  こうやってオペラを聴くと
                  如何にヴェルディとかプッチーニが
                  歌手を大事にして中心に据えて音楽を作ったのかがわかるなぁ。
                  イタリアのオペラ作家、まぁ、ベッリーニでもドニゼッティでも
                  あるいはイタリアじゃなくてモーツァルトでも良いけれど
                  歌手が聴かせどころを歌う時のオーケストレーションは
                  絶対に歌手を殺さないようになっているじゃありませんか。

                  コンサート形式でなければ
                  大編成オーケストラは、オーケストラ・ビットに入るので
                  今日よりも、音量としてはずっと小さい、という事を考えても
                  オーケストラと同時に
                  しかも時々オーケストラはトゥッティで金管まで響かせて
                  そこで、あの繊細なドイツ語の歌詞の
                  早口言葉にしか聞こえない歌を歌わせるって、普通、無理じゃないのか。

                  それに、時々、2名の歌手の歌の最後と最初が被るのである。
                  これは非常に聴きにくいし、慌ただしい。
                  後半でヨゼフとレニが掛け合いしている途中に
                  弁護士のモノローグがずっと背景で歌われているのもわかり難い。

                  歌手が優秀だった事もあるし
                  オーケストラもバッチリだったし
                  音楽的な表現力の豊かさにも目を見張って
                  かなり聴き応えのあるオペラだった。

                  フォン・アイネムって
                  生前は社会党の政治家だった事もあって
                  かなり定期的にウィーンのオーケストラが演奏して来て
                  死後は、さ〜っぱり聴かなくなった、と思ったら
                  先シーズン、オペラ座で「ダントンの死」が上演され評判が良く
                  最近はコンサートでも時々、フォン・アイネムの作品が演奏されている。

                  良いモノを聴いた、と満足して
                  プログラムを捲って、歌手の紹介欄で
                  主人公ヨゼフを歌った、超優秀なテノールの写真を見て
                  誰これ???
                  と一瞬叫んでしまった私に
                  どうぞ1クリックをお恵み下さい。



                  別に良いんですけど
                  アーティストって、時々、いつの写真ですかこれ
                  という顔写真をプログラムに載せるので
                  ビックリする・・・というより、どう見ても別人なんだけど(笑)

                  クラング・フォーラム + カリツケ

                  0
                    Wiener Konzerthaus Mozart-Saal 2018年11月21日 19時30分〜21時30分

                    Klangforum Wien
                    ソプラノ Agata Zubel
                    音響演出 Peter Böhm
                    指揮 Johannes Kalizke

                    Friedrich Cerha (1926*)
                     Kurzzeit (2016-2017)
                    Wolfram Schurig (*1967)
                     fünf ostinati (2017-2018) UA
                      Kompositionsauftrag von Wien Modern und Klangforum Wien
                    Agata Zubel (*1978)
                     Cleopatra’s Song (2017-2018) EA
                      Erste Bank Kompositionspreis 2018

                    ウィーン・モデルン現代音楽祭のスポンサーの銀行は
                    私のメイン・バンクでもあるのだが
                    ここ数年、資金の運用で大損を被っていて
                    ゲネラル・パスが10ユーロ安くてもあまり嬉しくない。

                    こういう、一部のフリークを除いて誰も見向きもしない(すみません)
                    現代音楽祭のスポンサーになって
                    例年、作品に賞を与えてる分の金を返せ・・・
                    と、せこい事を思わないでもないのだが
                    このスポンサーリングがなくなったら
                    この音楽祭も続くかどうかわからないので
                    (続いてくれないと11月の楽しみ=ツッコミどころ満点が減る)
                    まぁ、それは良しとしよう。

                    時々、本当に面白い作品が賞を取る事もあるし(稀ですが)

                    さて、今回のコンサートの賞を取ったのは
                    ポーランドの女性作曲家でソプラノのアガタ・ズベル。

                    ポーランド・・・・
                    この間のコンサートでポーランド大使館がスポンサーだったのがあったが
                    その政治的関係もあるんじゃないだろうか
                    と、ついつい邪推する腹黒のワタシ。

                    だって、作品、面白くなかったんだもん。
                    チェルハ教授のインストルメンタルの作品は
                    あ〜、この人、92歳で、まだ、これだけの豊かな引き出しを持っているのか
                    と、ちょっと仰け反り返ったが。

                    その後のシューリックの作品は
                    アガタ・ズベルがソプラノで、マイクで歌って
                    後半のズベルの作品も
                    同じくご本人がマイクでソプラノで歌ったんだけど

                    どこに違いがあるのか
                    さ〜っぱりわかりませんでした。
                    すみませんね、シロウトだもんで。
                    去年から大学に通っているとは言っても
                    まだ、ガクシャのガの字までも到達していなくて
                    せいぜい、ガの濁点1つくらいのところで止まってるもんで。
                    (ひねくれたところを自慢するアホ)

                    このテのコンサートになると
                    来ている人は
                    関係者(音楽家のお友達)か
                    現代音楽しか聴きません、というコアなフリーク層か
                    現代音楽とルネッサンス音楽しか聴きません、というキセル族くらい。
                    (ご存知の通り、現代音楽ファンには、意外にルネッサンス音楽のファンが多い。
                     確かにグレゴリアンとか、現代音楽に通じるところはある)

                    その層がどういう層かと言うのが
                    こういうコンサートだと如実に現れるのは
                    音楽社会学的な観点から見ると、何となく面白い。

                    ネクタイしている男性は1人もいない。
                    全体的に服装が汚れた感じに見える(あ、すみません)
                    着ている服の色が地味(女性含む)
                    ライト・カジュアルが多い。ジーンズの割合が高い。
                    運動靴が多い・・・というより革靴の人がいない。

                    関係者の男性は、みんな長髪で、後ろを縛っていて
                    だいたい上から下まで黒の服を着ている。

                    こういうコンサートにもドレス・コードってあるんでしょうかね。
                    確かに、この場に、ビジネスっぽい上着+ネクタイで来たら
                    モロに浮きまくるに違いない。

                    ウチの彼氏モドキに言わせると
                    社会的に成功していない自称インテリ層の集まり
                    なのだそうだが
                    別にそれがイケないとか言うんじゃないので
                    誤解なきよう。
                    (それ言ったら、ワタシ自身だって、その層かもしれない。
                     まぁ、インテリじゃないけど・・・)

                    現代音楽って、玉石混合だから
                    時々、えっ!という面白いものに出会う事もあるし
                    なんじゃこれ、というのもある。
                    (それはイム・プルス・タンツ コンテンポラリー・ダンス祭も同じ)

                    今日みたいなコンサートを聴いてしまうと
                    作曲家はいったい何を考えているんだろう、と思ったりする。

                    だって、何も(少なくとも私には)伝わって来ない。
                    作曲家ないしは演奏家が
                    ほら、私、スゴイのよ、聴きなさいよ、ほらほら
                    と言う感じに自己主張しているのはわかる。
                    けれど、その中に聴衆の存在というものはあるんだろうか。

                    確かに、いわゆる普通の人、失礼な言い方になるのを承知で
                    一般大衆にウケて、マスコミで売れるような音楽を
                    避けているのか、それともそういう曲は書けないのか
                    ともかく、よくわからない存在ではある。

                    先学期、現代女性作曲家をテーマにした講義があって
                    毎週、オーストリアの現代女性作曲家を招いて
                    公演してもらっていた時に
                    一度、何でそんな曲を作曲するんですか?と聞いちゃったのだが
                    (いやもう、ワタシって何て厚かましい・・・(^^;;)
                    子供の頃から作曲に興味があって、という回答を得たので
                    作曲家、という人種は
                    ともかく作曲しなくては生きていけない、という人種のようだ。

                    現代音楽の(一般)聴衆からの乖離というのは
                    かなりスゴイ事になっているのではないか。
                    しかも、聴衆が、どんどん老化している。
                    いや、冗談じゃなくて
                    マジに老人が多い。
                    ウィーン・フィルの定期コンサートじゃないのこれ?
                    と思うくらいに、お歳を召した方が多い。
                    そりゃ、チェルハ教授だって90歳過ぎだし
                    ノーノやリゲティに
                    ブーレーズもシュトックハウゼンも故人になってしまい
                    では、その後に、ものすご〜〜く有名な現代音楽作曲家が出ているかと言えば

                    そりゃ、トーマス・アデスとか
                    アリベルト・ライマンとか、
                    ペテル・エトヴェシュやヴォルフガング・リーム
                    そう言えばペンデレツキもグバイドリーナもシチェドリンも
                    フランソワ・ベイルも、ラッヘンマンも
                    アルヴォ・ペルトやバートウィッスルもご在命でした ^^;
                    スティーブ・ライヒやフィリップ・グラスもいるな・・・
                    私が大好きなサルヴァトーレ・シャリーノやトリスタン・ミュライユは
                    この音楽祭では演奏されないんだろうか?(たぶん費用的に高すぎる(笑))

                    あらま、結構、ポピュラーな作曲家、いるじゃん・・・

                    今週末のアルディッティ弦楽四重奏団は
                    ジェームス・サンダースとブライアン・ファーニホーを演奏する予定なので
                    これは期待できる (^^)v

                    コンサート後に、下のホールで
                    受賞した作曲家を囲んで
                    無料で飲み物が提供される小パーティがあるのだが
                    (数年前までは食事まで供されていた)
                    ああいう集まりは知り合いがいないと非常に気詰まりなので
                    例年、パーティには行かず
                    さっさと帰ってしまう、お友達のいないかわいそうな私に
                    どうぞ1クリックをお恵み下さい。



                    朝の9時から17時まで
                    びっしり講義と演習をこなして
                    夜のコンサートまで図書館に閉じこもっているのだが
                    全然勉強する気にならず
                    書く気のなかった昨日のコンサートの独断偏見の印象だけまとめてみた。
                    (よって、アップの日付と時間は実際の時間ではありません)

                    STEOP 試験がもうすぐなので
                    真面目に苦しんでいる新入生が多くて
                    1年前を思い出して、ちょっと微笑ましい。
                    ・・・もっとも STEOP に受かってからも地獄?が待ってるけど(笑)

                    フローリアン・ベッシュ+マルティヌー「冬の旅」

                    0
                      Wiener Konzerthaus Mozart Saal 2018年11月19日 19時30分〜21時30分

                      バスバリトン Florian Boesch
                      ピアノ Malcolm Martineau

                      Franz Schubert (1797-1828)
                      Winterreise. Liederzyklus nach Gedichten von Wilhelm Müller D 911 (1827)

                      19時までの授業を早退して
                      (先生からは了承済み)
                      少し早めに出たのに
                      地下鉄がなかなか来なくて
                      最後は、泣きながらカールスプラッツからコンツェルトハウスまで走って
                      何とかギリギリに駆けつけたコンサート。

                      だいたい、超貧乏の私が、何故に50ユーロ近くの席を買ったんだか・・・
                      いつも初日を選んで買っているので
                      遅かったとは言わせないが、きっと、既に安いチケットは売り切れだったのだろう。

                      いくら安くても、平土間の後ろの席には絶対に座りたくないし。
                      (音響が悪いのだ。平土間後ろの上に被さる席は避けるべし)

                      汗だくで席について
                      フローリアン・ベッシュの「冬の旅」
                      2010年2015年に続き、聴くのは3回目。

                      昨日からウィーンは急に冬の様相を呈し
                      初雪は降るわ、暗いし、道路は濡れてるし
                      ロマンティックな「冬」の感じは一切なくて

                      ああああ、とうとう、冬が来てしまった・・・

                      秋とか冬とか言う季節は
                      太陽は出て来ないし
                      暗いし、ジメジメしていて
                      もう、本当にどうしようもない季節なのだ(断言)。

                      よく冬に来る観光客のグループにアテンドするガイドさんが
                      時々、太陽が照る日に当たると
                      「皆さま、今日は太陽が出てます!!!」と
                      ものすご〜く嬉しそうに1人ではしゃいでいて
                      グループの日本人の方々は
                      何故にガイドさんがはしゃいでいるのか
                      よくわからん、という状況に遭遇する事があると思うのだが

                      冬が始まったら
                      数週間、太陽なんていったいこの世にそんなもの、まだあったっけ?
                      という、暗い暗い暗い季節が4月のイースターまで続く、という
                      残酷なヨーロッパの状況をご存知ないのである。

                      そんな冬の始まりの
                      ジメジメして、太陽がなくて
                      朝から夕方まで暗くて
                      その後はもっと暗くて

                      でも、先週からはウィーン市庁舎前の
                      クリスマス・マーケットまで始まってしまった
                      (すごい人混みだった)
                      暗い季節だからこそ
                      何か華やかな行事がなければ
                      うつ病になるかも・・・という
                      恐ろしい冬の始まり。

                      そんな暗いシーズンにシューベルトの「冬の旅」(絶句)
                      あの、恐ろしいまでに色彩のない
                      白黒の世界の、鬱々とした「冬の旅」!!!(しつこい)

                      シューベルトの歌曲は数が多いのだが
                      まぁ、美しき水車小屋の娘は初々しくて好きだし
                      白鳥の歌は死後にマーケティングの関係上
                      まとめた歌曲集で、最後の鳩の郵便が好きなのだが
                      この「冬の旅」だけは
                      どうしてもどうしても好きになれず・・・

                      ベッシュの歌声で聴いても
                      暗い色調で、鬱々としていて
                      この季節に聴いたら
                      全員、コンサート・ホールを出て
                      踏切に向かって集団自殺でもするんじゃないか、というチクルスなのだが
                      ウィーン、ほとんど踏切ないし・・・いや、そういう事じゃなくて(汗)

                      ただ、このチクルス
                      ベッシュで3回目だけど
                      最初の時は、本当にゾクゾクする程の恐ろしさを秘めて
                      2回目は、ちょっと、その背後に、何となくの優しさが見えて

                      今日のチクルスだけど
                      時々、むちゃくちゃ優しくなる部分もあるけれど
                      無情な人生への怒りが、時々、すごく暴力的に出て来る。

                      やるせない怒りなのだが
                      それが、諦観になっていない。
                      くそ、諦めるものか、この人生の不幸に逆らってやる
                      ・・・という気概のエネルギーみたいなものが
                      ジンジンと伝わって来る。

                      だから、今回は救いのない「冬の旅」になっていない。
                      そうだ、人生、どこかで戦わねばならないのだ
                      という悲愴な決心みたいなものが、根底にある。

                      とは言え、それは私の主観的な受け取り方。

                      この間のシューベルトの「美しき水車小屋の娘」と同じように
                      コンサート後に、残る人は残って
                      フローリアン・ベッシュが
                      この冬の旅に、どうアプローチしたか、というお話の時間が設けられた。

                      ベッシュ曰く
                      「冬の旅」については、何も言えない・・・
                      とか言いながら
                      最初の「別離」についても

                      ほら、ここ、君の夢を邪魔しないように、というところで
                      普通だったら繰り返しで短調で行くところを
                      シューベルトは長調で作曲したんですよ、ほら長調でしょ?!

                      これは、ミュラーの詩が
                      皮肉の入ったものではないか、という聴衆からの質問に答えたもので
                      ミュラーが皮肉に満ちた詩を書いたとしても
                      シューベルトの音楽が、その諧謔性を否定している、という話になった。

                      ベッシュ曰く
                      シューベルトがこの歌曲集を通じて音楽で表現したのは
                      悲しい者に対しての、ものすごく暖かい視線ではないか、との事。

                      最後のライアーマンにしても
                      ベッシュに言わせると
                      あれは、ich bin der Welt abhanden gekommen の世界で
                      (註 もちろんマーラーである)
                      ライアーマンは誰の役にも立たない楽器を演奏しているけれど
                      彼の中で世界は完結している・・・のだそうだ。

                      そうだよね、うん。
                      だから、ベッシュの解釈ではライアーマンは救いようがない訳ではなく
                      社会から孤立していても
                      そこで生き抜いていくだけの逞しさがチラ見えする。

                      ベッシュの解釈では
                      この「冬の旅」の主人公は
                      あっちで追い出され、こっちで拒否されても
                      菩提樹が「ここで休みなさい」と言っても
                      それを拒否し、休む事を知らずに
                      ともかく、どこに行き着くかわからなくても
                      歩いていく、という強い意志を持った人間なのだそうだ。

                      あ〜、だからか。
                      今回の「冬の旅」では
                      もちろん曲の持っている暗さとか
                      墨絵みたいな白黒の世界はあっても
                      そこに「絶望」という文字はなく

                      生きている詩人(主人公か)が
                      思い通りにならない人生に怒りを覚えながらも
                      まだまだ先に行くぞ、みたいな
                      エネルギッシュな推進力のある「冬の旅」だった。

                      歌手の解釈がどうだったか
                      あるいは、歌手がテキストと音楽に何を見ているか
                      聴いていても、ある程度はわかるんだけど
                      (わからなかったら意味ないし)
                      こうやって、言語的に背景の解釈的な事を聞くと
                      疑問に思っていた事も、多少なりとも解決するので面白い。

                      ベッシュの美しいドイツ語は
                      あくまでもクリアで、詩の内容を一字一句とも疎かにしない。
                      表現はあくまでもドラマチック。
                      時々、抑制の効かないような感情的な爆発もある。

                      ミュラーの詩そのものは
                      シューベルトが作曲しなかったら
                      文学史からは忘れられているであろう、とかよく言われるんだけど
                      確かに中2病の真っ只中で
                      後で読んだら、あまりに気恥ずかしくて死にたくなるような詩だけど
                      当時のロマン派って
                      みんな、そうだったので
                      時代の背景を考えてみたら、詩としては良いんじゃないかと思う。
                      (いやでも、確かに詩として読んだら
                       あまりの恥ずかしさにちょっと逃げたくなるのは事実だが)

                      でもシューベルトは
                      人生振り返って、きゃ〜〜〜っ、青春の恥っ!!!と思うほど、生きなかった。
                      31歳で没したのだから
                      センチメンタル青年のままで良いのである。
                      シューベルトが70歳まで生きていたとしたら
                      たぶん、この数多くのリートは存在していなかったんじゃないだろうか。
                      (その代わり、交響曲が20曲以上あったりして・・・(笑))

                      すみません、次の日の夜に
                      かなり酔っ払って急いで書いた記事なので
                      めちゃくちゃですが
                      書かないよりはマシか、とアップしてしまう
                      厚かましい私に
                      どうぞ1クリックをお恵み下さい。


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