Wiener Konzerthaus Großer Saal 2018年10月31日 19時30分〜21時40分
Wiener Symphoniker
ピアノ・エレクロトニクス Sebastian Berweck
サクソフォン Marcus Weiss
パーカッション Christian Dierstein
指揮 Sylvain Cambreling
Iannis Xenakis (1922-2001)
Metastaseis B (1953-1954)
Malte Giesen (*1988)
Konzert für hyperreales Klavier und Orchester (2017-2018) UA
Julia Purgina (*1980)
Akatalepsia (2018) UA
Sir Harrison Birtwistle (*1934)
Panic. Ein Dithyrambus für Altsaxophon, Jazzschlagzeuger, Holzbläser,
Blechbläser und Percussion (1955)
Helmut Lachenmann (*1933)
Marche fatale (2017) EA
ウィーン・モデルン現代音楽祭のコンサート。
整理券もなし・・・という事は、わっはっは(察して下さい)
それでも、平土間70%がた入ってるし
バルコン席も同じく、半分以上は入っているのが凄い。
ヤニス・クセナキス以外は
すべて、まだ在命の作曲家の作品。
うち、2作品は世界初演 (UA = Uraufführung) で
1作品はオーストリア初演 (EA = Erstaufführung)
クセナキスの作品は1955年にドナウエッシンゲン音楽祭で初演された作品。
大規模オーケストラで、数学的な処理をされている音符のはずだが
実際に聴いてみると、何とも情熱的な感じがする。
7分くらいのコンパクトだが、内容の濃い作品。
次がドイツの新進作曲家による作品の初演。
ヤマハのピアノをコンピュータと繋いだ「超実数ピアノ」って
何の事か、アホな私には全くわからないが
プログラムの解説によれば
現代はみんな、イアフォンで音楽を聴いているので
音響空間が影響を及ぼさない音楽を
ピアノ・・・というより MIDIの発生源を使って
オーケストラと演奏する・・・らしい。
あ〜、う〜・・・
クセナキスの音楽が立体的だったのに比べて
こちらの音楽は超2次元的というか
オーケストラの普通の音響を使っている時点で
音響空間が影響を及ぼすのは自明のはずなのだが
アーティストによれば、それは違うらしいのだが
そういう高尚な事はワタクシにはわかりません。
(それに結構長かった・・・23分。最後はピアノ音響のループ)
後半はウィーンとベルリンでビオラと作曲を学び
ウィーン放送交響楽団の後、ウィーン室内管弦楽団のメンバーで
ウィーン大学でスラブ学とゲルマニスティックを学んでいる女性の作品。
フル・オーケストラだが
次の作品の準備か、弦が全部上手(かみて)に位置。
(下手(しもて)にはジャズのパーカッション・セットが2つ)
この作品、15分ほどの曲なのだが
弦のピアニッシモのピチカートと
弱音のパーカッションから始まって
曲に色彩が見える(ような気がする)
プログラムにタイトルの Akatalepsia 不可知論についての記載があるが
あ〜、もう、何だかよくわかりません。
眠りの神ヒュプノスとその兄弟モロスとタナトスが
夜の神ニュクスの子供たちと音楽の中を飛び回り
人間の死は確実だが、その美は死の瞬間に開示され
本質は感覚的にしか捉える事ができない(意訳、文責なし)
・・・ったく何の事やら理解不可能(私がアホだから)
でも、作曲家自身が sinnlich 感覚的という言葉を使うだけあって
音楽そのものが、かなり詩的にロマンティックで
音響の構成が、その意味では古典的に美しい。
オーケストラの音量をかなり下げているだけに
金管を吹かずに、手で叩く奏法も
音が埋もれずに、かなり面白い音響設計になっていた。
ハリソン・バートウィッスルと言えば
イギリスの現代音楽では大御所で
私も今まで何回か、作品を聴いた事はあるが
今回の曲は1995年に BBC Symphony Orchestra で
イギリスのプロムスで初演された曲。
サクソフォンのソロとジャズ・パーカッションに
オーケストラは金管と木管とパーカッションだけ。
詳しい編成は
サクソフォン(ソロ)、パーカッション(ソロ)
フルート3本(2番・3番はピッコロ持ち替えあり)
オーボエ3本(3番はイングリッシュ・ホルン持ち替えあり)
クラリネット、変ホ調クラリネット、バス・クラリネット
ファゴット2本、トロンボーン3本、チューバ、ティンパニ、パーカッション
・・・沈黙。
ソロのサクソフォン、時々、音が埋もれて聴こえないし
ジャズのパーカッションも
あんまりバリエーションなくて
途中、ジャズ・パーカッションが位置を変えて
サクソフォンが時々パーカッションにキューだして
パーカッションが指揮者とは別に指示を出して
かなり緊張感に満ちた、ギグみたいな面白さはあったけれど
きっと私の感受性の問題なのだが
何だか全体に似たような音楽の進行なので
何となく聴いていて、飽きてくる。
きっとサクソフォンの人は
素人にはわからない超絶技巧で演奏しまくりなのだろうが。
それに、ウィーン交響楽団の木管・金管ってむちゃ巧いんだけど
この作品、そのオーケストラの名人の盛大な無駄遣いのような気がする。
最後はヘルムート・ラッヘンマンの6分ほどの曲。
ジャズ・パーカッションのセット2つを片付け
バイオリンの椅子を置いて
現代音楽は舞台設定に時間がかかるのが難点だが
コンツェルトハウスのスタッフの早業は
いつもながら見事なものだ。
ラッヘンマンと言えば雑音・・・って
私も相当に失礼だが(笑)
プログラムによれば
2017年にシュトゥットガルトオペラ座オーケストラで
今日の指揮者のカンブレランと初演されたこの曲は
今までの作曲技法とは全く違うそうで
あらっ
伝統に回帰したのか、と思われる程の
古典的でトナールでメロディックで
映画音楽からの要素をふんだんに取り入れた
長調のフルオーケストラのポピュラー音楽
・・・みたいに聴こえるのだが
で、私の周囲の人たちも
笑ったり、身体揺らして踊っていたりしたんだけど
これ、ほとんど認知しないようなところに
微妙に和声の間違いが・・・
ものすごく巧妙に仕組まれているために
表面だけ聴いていると
ただの映画音楽に聴こえない事もないんだけど
ものすごく気持ち悪いです。
プログラム記載の本人の解説によれば
現代の没落していく市民社会の中で
「笑うべきもの」を真面目に捉え
麻痺した精神の黒い穴への道が
愉快なものである可能性を示唆し
私の過去の「音楽でないもの」の作曲から
本来の音楽という概念を捉え直し、違う側面からアプローチし
コンサート・ホールが欺瞞的な隠れ場所への退避から
精神を開く冒険の場所になる・・・あるいは
そこから、ひどく裏切られて脱線する・・・どうやったらそうなるんだろう。
(意訳です、文責なし)
今の作曲家の皆さま
頭の良い方ばかりなので
プログラムに書かれていても、今ひとつ、よくわからん。
ハイドンが「今回の曲は新しい方法で書きました、ふうううう」とか言ってるのと
わけが違う。
聴いている側からすれば
その瞬間の音響「だけ」が重要なので
作曲家が何を考えたかなんて
学問対象にでもしない限りは、全く興味ないのだが
音楽社会学的なアプローチするなら・・・・
ああああああっ、いかん、毒されて来てる (^^;;
でも今回の選曲、バリエーションあって
かなり面白かった。
オーケストラはウィーン交響楽団だが
いつものような燕尾服+白い蝶ネクタイじゃなくて
ウィーン放送交響楽団と見間違える
上から下まで真っ黒の上着なしのシャツ揃え。
現代音楽のドレス・コードなのかしら(爆笑)
最初、あれ?ウィーン放送響だったっけ?
でも、何かメンバーが違う???と
不思議に思った私に
どうぞ1クリックをお恵み下さい。
11月1日はオーストリアは祝日。
金曜日2日は大学は授業なし。やれやれ。
もっとも、来週火曜日にテストがあるのをすっかり失念していたので
すごく焦ってはいるのだが・・・
(だったらブログなんて書いてないで勉強しろ、という声が聞こえる・・・💦)
Wiener Symphoniker
ピアノ・エレクロトニクス Sebastian Berweck
サクソフォン Marcus Weiss
パーカッション Christian Dierstein
指揮 Sylvain Cambreling
Iannis Xenakis (1922-2001)
Metastaseis B (1953-1954)
Malte Giesen (*1988)
Konzert für hyperreales Klavier und Orchester (2017-2018) UA
Julia Purgina (*1980)
Akatalepsia (2018) UA
Sir Harrison Birtwistle (*1934)
Panic. Ein Dithyrambus für Altsaxophon, Jazzschlagzeuger, Holzbläser,
Blechbläser und Percussion (1955)
Helmut Lachenmann (*1933)
Marche fatale (2017) EA
ウィーン・モデルン現代音楽祭のコンサート。
整理券もなし・・・という事は、わっはっは(察して下さい)
それでも、平土間70%がた入ってるし
バルコン席も同じく、半分以上は入っているのが凄い。
ヤニス・クセナキス以外は
すべて、まだ在命の作曲家の作品。
うち、2作品は世界初演 (UA = Uraufführung) で
1作品はオーストリア初演 (EA = Erstaufführung)
クセナキスの作品は1955年にドナウエッシンゲン音楽祭で初演された作品。
大規模オーケストラで、数学的な処理をされている音符のはずだが
実際に聴いてみると、何とも情熱的な感じがする。
7分くらいのコンパクトだが、内容の濃い作品。
次がドイツの新進作曲家による作品の初演。
ヤマハのピアノをコンピュータと繋いだ「超実数ピアノ」って
何の事か、アホな私には全くわからないが
プログラムの解説によれば
現代はみんな、イアフォンで音楽を聴いているので
音響空間が影響を及ぼさない音楽を
ピアノ・・・というより MIDIの発生源を使って
オーケストラと演奏する・・・らしい。
あ〜、う〜・・・
クセナキスの音楽が立体的だったのに比べて
こちらの音楽は超2次元的というか
オーケストラの普通の音響を使っている時点で
音響空間が影響を及ぼすのは自明のはずなのだが
アーティストによれば、それは違うらしいのだが
そういう高尚な事はワタクシにはわかりません。
(それに結構長かった・・・23分。最後はピアノ音響のループ)
後半はウィーンとベルリンでビオラと作曲を学び
ウィーン放送交響楽団の後、ウィーン室内管弦楽団のメンバーで
ウィーン大学でスラブ学とゲルマニスティックを学んでいる女性の作品。
フル・オーケストラだが
次の作品の準備か、弦が全部上手(かみて)に位置。
(下手(しもて)にはジャズのパーカッション・セットが2つ)
この作品、15分ほどの曲なのだが
弦のピアニッシモのピチカートと
弱音のパーカッションから始まって
曲に色彩が見える(ような気がする)
プログラムにタイトルの Akatalepsia 不可知論についての記載があるが
あ〜、もう、何だかよくわかりません。
眠りの神ヒュプノスとその兄弟モロスとタナトスが
夜の神ニュクスの子供たちと音楽の中を飛び回り
人間の死は確実だが、その美は死の瞬間に開示され
本質は感覚的にしか捉える事ができない(意訳、文責なし)
・・・ったく何の事やら理解不可能(私がアホだから)
でも、作曲家自身が sinnlich 感覚的という言葉を使うだけあって
音楽そのものが、かなり詩的にロマンティックで
音響の構成が、その意味では古典的に美しい。
オーケストラの音量をかなり下げているだけに
金管を吹かずに、手で叩く奏法も
音が埋もれずに、かなり面白い音響設計になっていた。
ハリソン・バートウィッスルと言えば
イギリスの現代音楽では大御所で
私も今まで何回か、作品を聴いた事はあるが
今回の曲は1995年に BBC Symphony Orchestra で
イギリスのプロムスで初演された曲。
サクソフォンのソロとジャズ・パーカッションに
オーケストラは金管と木管とパーカッションだけ。
詳しい編成は
サクソフォン(ソロ)、パーカッション(ソロ)
フルート3本(2番・3番はピッコロ持ち替えあり)
オーボエ3本(3番はイングリッシュ・ホルン持ち替えあり)
クラリネット、変ホ調クラリネット、バス・クラリネット
ファゴット2本、トロンボーン3本、チューバ、ティンパニ、パーカッション
・・・沈黙。
ソロのサクソフォン、時々、音が埋もれて聴こえないし
ジャズのパーカッションも
あんまりバリエーションなくて
途中、ジャズ・パーカッションが位置を変えて
サクソフォンが時々パーカッションにキューだして
パーカッションが指揮者とは別に指示を出して
かなり緊張感に満ちた、ギグみたいな面白さはあったけれど
きっと私の感受性の問題なのだが
何だか全体に似たような音楽の進行なので
何となく聴いていて、飽きてくる。
きっとサクソフォンの人は
素人にはわからない超絶技巧で演奏しまくりなのだろうが。
それに、ウィーン交響楽団の木管・金管ってむちゃ巧いんだけど
この作品、そのオーケストラの名人の盛大な無駄遣いのような気がする。
最後はヘルムート・ラッヘンマンの6分ほどの曲。
ジャズ・パーカッションのセット2つを片付け
バイオリンの椅子を置いて
現代音楽は舞台設定に時間がかかるのが難点だが
コンツェルトハウスのスタッフの早業は
いつもながら見事なものだ。
ラッヘンマンと言えば雑音・・・って
私も相当に失礼だが(笑)
プログラムによれば
2017年にシュトゥットガルトオペラ座オーケストラで
今日の指揮者のカンブレランと初演されたこの曲は
今までの作曲技法とは全く違うそうで
あらっ
伝統に回帰したのか、と思われる程の
古典的でトナールでメロディックで
映画音楽からの要素をふんだんに取り入れた
長調のフルオーケストラのポピュラー音楽
・・・みたいに聴こえるのだが
で、私の周囲の人たちも
笑ったり、身体揺らして踊っていたりしたんだけど
これ、ほとんど認知しないようなところに
微妙に和声の間違いが・・・
ものすごく巧妙に仕組まれているために
表面だけ聴いていると
ただの映画音楽に聴こえない事もないんだけど
ものすごく気持ち悪いです。
プログラム記載の本人の解説によれば
現代の没落していく市民社会の中で
「笑うべきもの」を真面目に捉え
麻痺した精神の黒い穴への道が
愉快なものである可能性を示唆し
私の過去の「音楽でないもの」の作曲から
本来の音楽という概念を捉え直し、違う側面からアプローチし
コンサート・ホールが欺瞞的な隠れ場所への退避から
精神を開く冒険の場所になる・・・あるいは
そこから、ひどく裏切られて脱線する・・・どうやったらそうなるんだろう。
(意訳です、文責なし)
今の作曲家の皆さま
頭の良い方ばかりなので
プログラムに書かれていても、今ひとつ、よくわからん。
ハイドンが「今回の曲は新しい方法で書きました、ふうううう」とか言ってるのと
わけが違う。
聴いている側からすれば
その瞬間の音響「だけ」が重要なので
作曲家が何を考えたかなんて
学問対象にでもしない限りは、全く興味ないのだが
音楽社会学的なアプローチするなら・・・・
ああああああっ、いかん、毒されて来てる (^^;;
でも今回の選曲、バリエーションあって
かなり面白かった。
オーケストラはウィーン交響楽団だが
いつものような燕尾服+白い蝶ネクタイじゃなくて
ウィーン放送交響楽団と見間違える
上から下まで真っ黒の上着なしのシャツ揃え。
現代音楽のドレス・コードなのかしら(爆笑)
最初、あれ?ウィーン放送響だったっけ?
でも、何かメンバーが違う???と
不思議に思った私に
どうぞ1クリックをお恵み下さい。
11月1日はオーストリアは祝日。
金曜日2日は大学は授業なし。やれやれ。
もっとも、来週火曜日にテストがあるのをすっかり失念していたので
すごく焦ってはいるのだが・・・
(だったらブログなんて書いてないで勉強しろ、という声が聞こえる・・・💦)