Wiener Konzerthaus Mozart Saal 2017年2月28日 19時30分〜21時15分
バリトン Florian Boesch
ピアノ Malcolm Martineau
Franz Schubert (1797-1828)
Die schöne Müllerin D 795 (1823)
この間の日曜日から
ほとんど日を空けずに
またバリトンでの「美しき水車小屋の娘」
フローリアン・ベッシュについては
何回か書いてもいるし
この深いバリトンの
ゾッとするようなシューベルトの「冬の旅」は
ナマでも何回か聴いた。
けど、今度は水車小屋の娘?
なんか、あのバリトンの声質のイメージに合わないんだけど・・・
登場したベッシュ
歌う前に突然
今日は自殺はないです
って・・・わっはっは、そういう解釈か。
歌った後に、この解釈についての解説があるとの事で
その説明は聞かずに
まずはベッシュがあの声で
美しき水車小屋の娘を、どう落とすか(こらっ)お手並み拝見。
最初から、えらく元気な青年(というかガキだな)登場(笑)
でも、すでに Das Wandern で
節ごとの表現が素晴らしい。
どの歌手も、どのピアニストもやるけれど
ピアノの音の重さとタッチを変えて自在に音を操るピアニストと
元気な声から、しっとりしたところまで
これも変幻自在のバリトンの表現に心を奪われる。
落ち着いた色調のリートの後
Am Feierabend で登場した親方が
どう見てもベテランの落語家にしか聞こえず(すみませんっ!)
いや、堂々としていて、実に良いのであるが
その後の娘のセリフ
最初を本当に(バリトンかお前は!)ソット・ヴォーチェでやった後
繰り返しを力強く歌ったので
あっ、この2回目の Allen eine gute Nacht の繰り返し
この若者の心の中のリピートで
なにぃ、みんなに良い夜をだって?!
ボクだけじゃないのか、ふざけるな(妄想)
Ungeduld あたりは
何か、怒っているように聴こえる程のエネルギーで
そんなコワイような声で
ボクの心はキミのもの、とか叫ばれても
・・・ちょっと困惑するだろ、これは(汗)
Des Müllers Blumen あたりは甘い声でゾクゾク。
その後の Tränenregen は後の解説で大きな役割を果たす事になる。
Der Jäger から Eifersucht und Stolz を
ドラマチックに歌い上げた後の
Die liebe Farbe の空虚さの対比に鳥肌が立つ。
しかもピアノがまたドラマチックで惚れるわ ♡
バリトンだからかもしれないけれど
低音がバッチリ効いていて(低音好き)
さて、最後の子守唄
自殺じゃない、と最初から言ってたから
もっと明るく歌うのかな?と思っていたけれど
ドラマチックではあっても、別にむちゃ明るい訳ではなくて
割に普通に歌った、という印象だった。
しかしまぁ、一風変わった水車小屋の娘ではある。
我々がディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウあたりで
聴き慣れた「キレイな」リーダー・クライスと全く違って
オペラ・・・とは言わない
オペラちっくな表現はない
けれど
ドイツ・リートの持っている劇的な部分を
これでもか、これでもか、とばかりに聴かせてくれた感じ。
さて、解説の時間です(笑)
ベッシュ曰く
「僕は、この「美しき水車小屋の娘」が
どうしてもわかりませんでした」
私の乏しいドイツ語理解力で分かった、という部分だけだし
何らかの私の偏見や誤解が入っているかもしれないが
これは青年と小川の対話です。
で、私は、小川というのは、いったい何だ?と
ずっと疑問に思って来ました。
・・・で、どっか一ヶ所に
小川が語りかける部分が、という話があったのだが
いったい何処だったっけ?(記憶力ゼロ(恥))
その深い小川の哲学的語りかけに応えたのが
最後の曲だそうで
自殺ではなく、もっと心理的に深い部分に入っていく象徴
・・・とか何とか(もう混乱しているワタシ)
ただ、面白かったのが
観客からの質問で
あなたの歌は、愛してる、と歌いながら
怒っているように聴こえたのですが
これ、かなり鋭い質問で
ベッシュも、おお、よくぞ聞いてくれた、とばかりに
Tränenregen の話になった。
この「涙の雨」という曲
確かに、このチクルスの中で
唯一、青年と娘が会話する曲なんだけど
ご存知の通り
2人で小川のほとりで、小川に2人が写っていて
青年の涙が小川に落ちると
娘が、あら、雨だわ、私、帰るね・・・という曲で
ベッシュ曰く
小川に2人が写っていると言う状況は
こうやって座って、乗り出して
2人で小川の上に顔を出している状態で
そこに落ちた涙を
雨と思って、じゃぁ、帰るね、という
この娘は、青年の感受性を全く理解できていない。
・・・まぁ、女性ってそういうモンでしょう。
男性が女性に期待し過ぎだ(爆笑)
ベッシュは、ここで
ずいぶん娘をバカにした振りをしていたけれど
プラグマチズムの強い女性は、だいたい、そんな感じだと思うよ?
その後の Mein ! で怒っているように聴こえるのは
そういう感受性を理解しない
要は世界観として、全く青年と別個な世界に生きている
俗物の女性を愛している、という状況に
青年が自分で自分を強制的に追い込んでいるから
・・・何となくわかるぞ、これ。
そうなんだよね
この「美しき水車小屋の娘」というチクルス聴いていると
私には、どうしても、この娘が
一時でも、この青年を愛したとは思えず
せいぜい、感受性の強いインテリな男の子が
何か、必死に縋ってくるから
ちょっと、手を出しちゃおうかなぁ
程度にしか聴こえない。
だいたい小川のほとりで2人で居る時に
小川の上に乗り出して、2人で小川に写る自分たちを見てるか?
普通だったら、小川見るんじゃなくて
お互いに見合ってイチャイチャだろう!!!
だから、確かにこのストーリーは
ラブストーリーでも、失恋物語でもなく
世界観が違う男女がくっつくのは無理・・・じゃなくて(冷汗)
見た目の美しさに夢中になって
知能程度の低い女性にひっかかっちゃダメよ・・・じゃなくて(冷汗)
何なんだ、このストーリー???
よく考えてみれば
最初から最後まで、青年の空回りだよね?
ベッシュに言わせると
この曲はロマンチックにキレイに歌おうとすれば
それなりに歌えてしまうし
今まで、ずっと、そのように歌われて来たけれど
実は違うんじゃないか。
15年前だったら、こういう歌い方は出来なかった
と言っていたけれど
それだけ、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウの
呪いというものは強力だったのだ。
本当にや〜っとここ数年
その呪縛から解放された才能ある歌手たちが
あの世代の歌手には思いもかけなかったような
新鮮な切り口でドイツ・リートを歌うようになってきて
オバサンの私も、やっと呪縛から解放されたような気がする。
もちろん、ベッシュが強調して言っていたけれど
歌い手にも聴き手にも
それぞれの解釈があって
ベッシュの解釈が唯一正しいものではない。
ただ、音楽的なアプローチではなく
テキストからの分析、という意味では
非常に面白い30分だった。
こういう実力のある歌手が
心理的に深い部分での考察や分析を重ねて
全く違う世界を聴かせてくれた時間は
睡眠不足だろうが
仕事が溜っていようが
行って良かった!!!と思わせる
充実した時間だった。
と、感覚的にも理性的にも
充分に満足して
オフィスに残業しに帰った私に
どうぞ1クリックをお恵み下さい。
いや、でも去年の2月・3月に比べたら
地獄と天国くらいの差はある(と思わないとやって行けない(笑))
何とか3月が過ぎてしまえば(え〜い、無事に過ぎろ!)
その後は、ぐっと楽になる(はず)
バリトン Florian Boesch
ピアノ Malcolm Martineau
Franz Schubert (1797-1828)
Die schöne Müllerin D 795 (1823)
この間の日曜日から
ほとんど日を空けずに
またバリトンでの「美しき水車小屋の娘」
フローリアン・ベッシュについては
何回か書いてもいるし
この深いバリトンの
ゾッとするようなシューベルトの「冬の旅」は
ナマでも何回か聴いた。
けど、今度は水車小屋の娘?
なんか、あのバリトンの声質のイメージに合わないんだけど・・・
登場したベッシュ
歌う前に突然
今日は自殺はないです
って・・・わっはっは、そういう解釈か。
歌った後に、この解釈についての解説があるとの事で
その説明は聞かずに
まずはベッシュがあの声で
美しき水車小屋の娘を、どう落とすか(こらっ)お手並み拝見。
最初から、えらく元気な青年(というかガキだな)登場(笑)
でも、すでに Das Wandern で
節ごとの表現が素晴らしい。
どの歌手も、どのピアニストもやるけれど
ピアノの音の重さとタッチを変えて自在に音を操るピアニストと
元気な声から、しっとりしたところまで
これも変幻自在のバリトンの表現に心を奪われる。
落ち着いた色調のリートの後
Am Feierabend で登場した親方が
どう見てもベテランの落語家にしか聞こえず(すみませんっ!)
いや、堂々としていて、実に良いのであるが
その後の娘のセリフ
最初を本当に(バリトンかお前は!)ソット・ヴォーチェでやった後
繰り返しを力強く歌ったので
あっ、この2回目の Allen eine gute Nacht の繰り返し
この若者の心の中のリピートで
なにぃ、みんなに良い夜をだって?!
ボクだけじゃないのか、ふざけるな(妄想)
Ungeduld あたりは
何か、怒っているように聴こえる程のエネルギーで
そんなコワイような声で
ボクの心はキミのもの、とか叫ばれても
・・・ちょっと困惑するだろ、これは(汗)
Des Müllers Blumen あたりは甘い声でゾクゾク。
その後の Tränenregen は後の解説で大きな役割を果たす事になる。
Der Jäger から Eifersucht und Stolz を
ドラマチックに歌い上げた後の
Die liebe Farbe の空虚さの対比に鳥肌が立つ。
しかもピアノがまたドラマチックで惚れるわ ♡
バリトンだからかもしれないけれど
低音がバッチリ効いていて(低音好き)
さて、最後の子守唄
自殺じゃない、と最初から言ってたから
もっと明るく歌うのかな?と思っていたけれど
ドラマチックではあっても、別にむちゃ明るい訳ではなくて
割に普通に歌った、という印象だった。
しかしまぁ、一風変わった水車小屋の娘ではある。
我々がディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウあたりで
聴き慣れた「キレイな」リーダー・クライスと全く違って
オペラ・・・とは言わない
オペラちっくな表現はない
けれど
ドイツ・リートの持っている劇的な部分を
これでもか、これでもか、とばかりに聴かせてくれた感じ。
さて、解説の時間です(笑)
ベッシュ曰く
「僕は、この「美しき水車小屋の娘」が
どうしてもわかりませんでした」
私の乏しいドイツ語理解力で分かった、という部分だけだし
何らかの私の偏見や誤解が入っているかもしれないが
これは青年と小川の対話です。
で、私は、小川というのは、いったい何だ?と
ずっと疑問に思って来ました。
・・・で、どっか一ヶ所に
小川が語りかける部分が、という話があったのだが
いったい何処だったっけ?(記憶力ゼロ(恥))
その深い小川の哲学的語りかけに応えたのが
最後の曲だそうで
自殺ではなく、もっと心理的に深い部分に入っていく象徴
・・・とか何とか(もう混乱しているワタシ)
ただ、面白かったのが
観客からの質問で
あなたの歌は、愛してる、と歌いながら
怒っているように聴こえたのですが
これ、かなり鋭い質問で
ベッシュも、おお、よくぞ聞いてくれた、とばかりに
Tränenregen の話になった。
この「涙の雨」という曲
確かに、このチクルスの中で
唯一、青年と娘が会話する曲なんだけど
ご存知の通り
2人で小川のほとりで、小川に2人が写っていて
青年の涙が小川に落ちると
娘が、あら、雨だわ、私、帰るね・・・という曲で
ベッシュ曰く
小川に2人が写っていると言う状況は
こうやって座って、乗り出して
2人で小川の上に顔を出している状態で
そこに落ちた涙を
雨と思って、じゃぁ、帰るね、という
この娘は、青年の感受性を全く理解できていない。
・・・まぁ、女性ってそういうモンでしょう。
男性が女性に期待し過ぎだ(爆笑)
ベッシュは、ここで
ずいぶん娘をバカにした振りをしていたけれど
プラグマチズムの強い女性は、だいたい、そんな感じだと思うよ?
その後の Mein ! で怒っているように聴こえるのは
そういう感受性を理解しない
要は世界観として、全く青年と別個な世界に生きている
俗物の女性を愛している、という状況に
青年が自分で自分を強制的に追い込んでいるから
・・・何となくわかるぞ、これ。
そうなんだよね
この「美しき水車小屋の娘」というチクルス聴いていると
私には、どうしても、この娘が
一時でも、この青年を愛したとは思えず
せいぜい、感受性の強いインテリな男の子が
何か、必死に縋ってくるから
ちょっと、手を出しちゃおうかなぁ
程度にしか聴こえない。
だいたい小川のほとりで2人で居る時に
小川の上に乗り出して、2人で小川に写る自分たちを見てるか?
普通だったら、小川見るんじゃなくて
お互いに見合ってイチャイチャだろう!!!
だから、確かにこのストーリーは
ラブストーリーでも、失恋物語でもなく
世界観が違う男女がくっつくのは無理・・・じゃなくて(冷汗)
見た目の美しさに夢中になって
知能程度の低い女性にひっかかっちゃダメよ・・・じゃなくて(冷汗)
何なんだ、このストーリー???
よく考えてみれば
最初から最後まで、青年の空回りだよね?
ベッシュに言わせると
この曲はロマンチックにキレイに歌おうとすれば
それなりに歌えてしまうし
今まで、ずっと、そのように歌われて来たけれど
実は違うんじゃないか。
15年前だったら、こういう歌い方は出来なかった
と言っていたけれど
それだけ、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウの
呪いというものは強力だったのだ。
本当にや〜っとここ数年
その呪縛から解放された才能ある歌手たちが
あの世代の歌手には思いもかけなかったような
新鮮な切り口でドイツ・リートを歌うようになってきて
オバサンの私も、やっと呪縛から解放されたような気がする。
もちろん、ベッシュが強調して言っていたけれど
歌い手にも聴き手にも
それぞれの解釈があって
ベッシュの解釈が唯一正しいものではない。
ただ、音楽的なアプローチではなく
テキストからの分析、という意味では
非常に面白い30分だった。
こういう実力のある歌手が
心理的に深い部分での考察や分析を重ねて
全く違う世界を聴かせてくれた時間は
睡眠不足だろうが
仕事が溜っていようが
行って良かった!!!と思わせる
充実した時間だった。
と、感覚的にも理性的にも
充分に満足して
オフィスに残業しに帰った私に
どうぞ1クリックをお恵み下さい。
いや、でも去年の2月・3月に比べたら
地獄と天国くらいの差はある(と思わないとやって行けない(笑))
何とか3月が過ぎてしまえば(え〜い、無事に過ぎろ!)
その後は、ぐっと楽になる(はず)