Musikverein Großer Saal 2017年1月30日 19時30分〜21時
Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
指揮 Mariss Jansons
Gustav Mahler (1860-1911)
Symphonie Nr. 9 D-Dur
音楽会に行ったとか
コンサート聴いて来た、とか
そんな生易しいものではなかった
・・・というのが
唖然として会場を出て来た私の正直な気持ちだったのだが
自分用メモだから
まずは長い長い長い前置きから行く(すみません)
ヤンソンスとバイエルン放送交響楽団のこのコンサート
実は発売日を完全に見逃していたのである(恥)
めぼしいコンサートは
自分のカレンダーをチェックしながら
発売初日を書き込んでいるのに
いつだか、地下鉄の駅の中で
ヤンソンスとバイエルン放送響
グスタフ・マーラーの交響曲9番、というポスターを見て
あぁ、こういうの、絶対にチケット持ってるわ
・・・と思ってカレンダー見たら
見事に1月30日の予定がない!!!!
焦って楽友協会のサイトを見たら
当然、立ち見席以外売り切れ満杯。
立ち見席に偏見はないけれど
楽友協会の立ち見席というのは
音響的には最悪のスペースなのである。
舞台が見える見えないは全然気にしないけれど
あんな音の飛んでこない、籠る場所で聴くのはイヤ。
ふん、マーラーの1曲だけだし
別にマーラー聴く気分じゃないし
・・・とか、色々と自分に言い聞かせつつ
毎日、楽友協会のサイトをチェックしていたら
出たぁっ!!!
カテゴリー5の席が!!!
(いつもはカテゴリー6の席を買う)
49ユーロでバルコン・ロジェだが
いつも行っている側だし
49ユーロ、49ユーロ、うううううん、高い
高いのは確かだし、たったの1時間ちょっとのコンサートだし
と、迷ったのは5秒くらい。
楽友協会のチケットも
自宅でプリント・アウトできる方式が採用されて
払い込みは銀行の口座からネットバンキングだし
チケット買うのに手間が要らない分
口座の残金が恐ろしい事になって行くのだが
それはもう、クラオタの宿命で
(って、なんか他人事みたいだが、それで良いのか?)
下から2番目のカテゴリーだから
舞台は見えない・・・というより
一部がかろうじて見える。
コントラバス8台と
第2バイオリンと(今日は対抗位置だった)
ホルンの一部と
その向こうに座っている
ポディウムの観客が見える。
(あの編成で舞台上まで席作って売ったんかい。
楽友協会ってある意味、スゴイな)
指揮者は見えない。
木管も見えない。
パーカッションも見えない。
で、どうせ見えない席だろうからと
バッグの中にはオーケストラ・スコア。
第1楽章から第3楽章まではスコアを追う気は全くない。
(どうせ追いていかれるだろうし)
スコアを持参した理由は
最終楽章を追いたかったからである。
見栄っ張りが自分の恥を晒すのは苦痛なんだけど
マーラーの交響曲9番の最終楽章って
どこで終わるか、今ひとつハッキリしないんだもん(汗)
弦が恐ろしいピアニッシモになっていって
途切れ途切れの吐息みたいに続いて
いつまで続くの、この吐息・・・とか思っているうちに
何となく終わってしまう、という状態は
今日は絶対に避けたい(悲愴な決心)
第4楽章のところを開けたまま足の上に置いて
始まった演奏だが
あれ?何か・・・普通というか
いや、オーケストラむちゃくちゃ巧いし
昨日、上品に演奏していたのと違って
時々、マーラーっぽい皮肉の
荒い部分が爆発的にあって
だけど、別に巧いだけで
そんなにあれこれ言う程の事もないような気が・・・
凄い失礼な事を書いてますが
もともとここ数ヶ月、マーラーを聴く精神状態にないし
ヤンソンスと聞いただけで
ああ素晴らしい指揮者だわ、という思い込みで
感激してしまうプラシーボ効果は私にはない。
いつもの位置と席が違うから
音も多少遠くて
その代わり、フォルテの部分は非常にバランス良く聴こえてくる。
という感じで
割に冷静に、分析的に
ついでに、いつもの観客より
多少なりともハイ・ソサエティな周囲の観客を
観察している余裕まであったのだ。
・・・って、自分で書いていてイヤになるわ。
まとめてのチクルス買いで来ている人がかなり居て
演奏中にプログラム読んでいたり
居眠りしていたり
でもチクルスで買える財力を備えた
ご年配の方々なので
スマホも弄らず
居眠りも極めて静かで上品 ♡
第2楽章の途中で
あの繰り返されるエレメントが
悪魔のストーカーに聴こえてきてゾッとしたが・・・
(脳内妄想)
座敷童というか
何か人の横っちょをコソコソ動いて
追い払おうとしても去っていかず
小柄な身体に邪悪な気配を纏って
隙あらば、悪い事に引きずり込むみたいな
あんな陽気で能天気に響くエレメントが
おかしな世界の邪悪な微笑みに聴こえて来たのは
私の精神状態がオカシイのかもしれない。
さて、最終楽章では
スコアをジッと見つめて追って行ったのだが
演奏が始まったとたんに
圧倒的な力に
思い切り殴られた(そういう気分)
すみません
ここで沈黙させて下さい。
世界で最も美しい曲と言うものがあるのなら
(まぁ、個人の好みとかあるから
「世界で一番」という主観的な対象物はあり得ないけれど)
このマーラーの交響曲9番の最終楽章ではないだろうか。
豊かな厚みのある弦の完璧なアンサンブルを
楽友協会の大ホールの残響が
優しくまろやかに包んで
そこに出現するのは
天国と地獄、この世と彼岸の間を揺蕩う
現実にはあり得ない空間。
感情的になり過ぎないように
スコアまで持って来ているのに
実際にはスコアを追いながら
冷静なチョイ悪ババアの見栄っ張りを気取っている私が
涙ボロボロ出てくるのを止められなかった状態。
(いや、恥ずかしい・・・)
この響きは、楽友協会の大ホールでないと
きっと聴けないだろう、と確信させるだけの力があって
しかもスコア見てると
各パートのフォルテ記号やクレッシェンド、デクレッシェンドが
もう見事に細かく書き込まれていて
(そういうのを見ちゃうだけの冷静さはあったみたい)
何て美しいスコア。
音響構築の完璧さ。
(移調楽器が多いのには参るけど・・・読めないじゃんか)
ああ、ここでこの楽器をこう重ねると
こういう音が出るのか、という目からの納得と
複雑な和声の妙味が
耳から入るわ、目から入るわ
ほとんど地獄だよ、これは(←狂喜している)
最後の1ページ。
指揮者にもオーケストラにも緊張感マックスで
聴いている方も固唾を飲んで集中する
あの最後の5分で
かなりでっかい声を出して
何回か咳き込んだ男性がいて
満場1800人の顰蹙を買っていた。
(まぁ、咳は仕方ないんですけど
普通、この曲を聴きに来る時は
のど飴を充分に用意した上
厚手のハンカチか小さなタオルを用意しませんか?
いや、しないんだよね、ウィーンの聴衆って(ため息)
・・・それでも顰蹙買う咳をしたのが1人だけだった、というのは
ウィーンではスゴイ事ではある)
しかしあの世界観はいったい何なんだ。
作品そのものの持っている力というのは
当然あるのだけれど
ヤンソンスとバイエルン放送交響楽団が描き出した
地獄のような天国のような
あの圧倒的な音響空間に出現した
全く別の世界って、何だったんだろう。
スコア追っていたお陰で
最後の音がどれかは明確にわかったんだけど
もうその時には
次元の違う空間に思い切りすっ飛ばされていて
全然コッチの世界に戻ってこられない状態。
マーラーの9番だから、と覚悟はしていたけれど
まさか異空間にすっ飛ばされるとは
考えてもみなかった。
もう完全にフラフラ状態で
会場出てから
同じコンサートに行ったらしい
年配のご婦人たちが
ウチの孫がね、なんて言う話をしているのを
地下鉄の駅で聞きながら
ううう、私も早いところ
現実世界に戻らねば・・・と思いつつも
頭の中でずっと、あの透明感のある厚みのある弦が鳴っていて
異次元の空間を彷徨っていて
いやこれ、今日は自分の車で運転して帰ったら危ない
・・・と
会社のガレージに車を突っ込んだまま
ボーッとしながら
公共交通機関で帰宅した私に
どうぞ1クリックをお恵み下さい。
しかしマーラーってコワイ。
ある意味、聴いているものの認識を
根底からひっくり返すだけの力を持っている。
くわばらくわばら。
Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
指揮 Mariss Jansons
Gustav Mahler (1860-1911)
Symphonie Nr. 9 D-Dur
音楽会に行ったとか
コンサート聴いて来た、とか
そんな生易しいものではなかった
・・・というのが
唖然として会場を出て来た私の正直な気持ちだったのだが
自分用メモだから
まずは長い長い長い前置きから行く(すみません)
ヤンソンスとバイエルン放送交響楽団のこのコンサート
実は発売日を完全に見逃していたのである(恥)
めぼしいコンサートは
自分のカレンダーをチェックしながら
発売初日を書き込んでいるのに
いつだか、地下鉄の駅の中で
ヤンソンスとバイエルン放送響
グスタフ・マーラーの交響曲9番、というポスターを見て
あぁ、こういうの、絶対にチケット持ってるわ
・・・と思ってカレンダー見たら
見事に1月30日の予定がない!!!!
焦って楽友協会のサイトを見たら
当然、立ち見席以外売り切れ満杯。
立ち見席に偏見はないけれど
楽友協会の立ち見席というのは
音響的には最悪のスペースなのである。
舞台が見える見えないは全然気にしないけれど
あんな音の飛んでこない、籠る場所で聴くのはイヤ。
ふん、マーラーの1曲だけだし
別にマーラー聴く気分じゃないし
・・・とか、色々と自分に言い聞かせつつ
毎日、楽友協会のサイトをチェックしていたら
出たぁっ!!!
カテゴリー5の席が!!!
(いつもはカテゴリー6の席を買う)
49ユーロでバルコン・ロジェだが
いつも行っている側だし
49ユーロ、49ユーロ、うううううん、高い
高いのは確かだし、たったの1時間ちょっとのコンサートだし
と、迷ったのは5秒くらい。
楽友協会のチケットも
自宅でプリント・アウトできる方式が採用されて
払い込みは銀行の口座からネットバンキングだし
チケット買うのに手間が要らない分
口座の残金が恐ろしい事になって行くのだが
それはもう、クラオタの宿命で
(って、なんか他人事みたいだが、それで良いのか?)
下から2番目のカテゴリーだから
舞台は見えない・・・というより
一部がかろうじて見える。
コントラバス8台と
第2バイオリンと(今日は対抗位置だった)
ホルンの一部と
その向こうに座っている
ポディウムの観客が見える。
(あの編成で舞台上まで席作って売ったんかい。
楽友協会ってある意味、スゴイな)
指揮者は見えない。
木管も見えない。
パーカッションも見えない。
で、どうせ見えない席だろうからと
バッグの中にはオーケストラ・スコア。
第1楽章から第3楽章まではスコアを追う気は全くない。
(どうせ追いていかれるだろうし)
スコアを持参した理由は
最終楽章を追いたかったからである。
見栄っ張りが自分の恥を晒すのは苦痛なんだけど
マーラーの交響曲9番の最終楽章って
どこで終わるか、今ひとつハッキリしないんだもん(汗)
弦が恐ろしいピアニッシモになっていって
途切れ途切れの吐息みたいに続いて
いつまで続くの、この吐息・・・とか思っているうちに
何となく終わってしまう、という状態は
今日は絶対に避けたい(悲愴な決心)
第4楽章のところを開けたまま足の上に置いて
始まった演奏だが
あれ?何か・・・普通というか
いや、オーケストラむちゃくちゃ巧いし
昨日、上品に演奏していたのと違って
時々、マーラーっぽい皮肉の
荒い部分が爆発的にあって
だけど、別に巧いだけで
そんなにあれこれ言う程の事もないような気が・・・
凄い失礼な事を書いてますが
もともとここ数ヶ月、マーラーを聴く精神状態にないし
ヤンソンスと聞いただけで
ああ素晴らしい指揮者だわ、という思い込みで
感激してしまうプラシーボ効果は私にはない。
いつもの位置と席が違うから
音も多少遠くて
その代わり、フォルテの部分は非常にバランス良く聴こえてくる。
という感じで
割に冷静に、分析的に
ついでに、いつもの観客より
多少なりともハイ・ソサエティな周囲の観客を
観察している余裕まであったのだ。
・・・って、自分で書いていてイヤになるわ。
まとめてのチクルス買いで来ている人がかなり居て
演奏中にプログラム読んでいたり
居眠りしていたり
でもチクルスで買える財力を備えた
ご年配の方々なので
スマホも弄らず
居眠りも極めて静かで上品 ♡
第2楽章の途中で
あの繰り返されるエレメントが
悪魔のストーカーに聴こえてきてゾッとしたが・・・
(脳内妄想)
座敷童というか
何か人の横っちょをコソコソ動いて
追い払おうとしても去っていかず
小柄な身体に邪悪な気配を纏って
隙あらば、悪い事に引きずり込むみたいな
あんな陽気で能天気に響くエレメントが
おかしな世界の邪悪な微笑みに聴こえて来たのは
私の精神状態がオカシイのかもしれない。
さて、最終楽章では
スコアをジッと見つめて追って行ったのだが
演奏が始まったとたんに
圧倒的な力に
思い切り殴られた(そういう気分)
すみません
ここで沈黙させて下さい。
世界で最も美しい曲と言うものがあるのなら
(まぁ、個人の好みとかあるから
「世界で一番」という主観的な対象物はあり得ないけれど)
このマーラーの交響曲9番の最終楽章ではないだろうか。
豊かな厚みのある弦の完璧なアンサンブルを
楽友協会の大ホールの残響が
優しくまろやかに包んで
そこに出現するのは
天国と地獄、この世と彼岸の間を揺蕩う
現実にはあり得ない空間。
感情的になり過ぎないように
スコアまで持って来ているのに
実際にはスコアを追いながら
冷静なチョイ悪ババアの見栄っ張りを気取っている私が
涙ボロボロ出てくるのを止められなかった状態。
(いや、恥ずかしい・・・)
この響きは、楽友協会の大ホールでないと
きっと聴けないだろう、と確信させるだけの力があって
しかもスコア見てると
各パートのフォルテ記号やクレッシェンド、デクレッシェンドが
もう見事に細かく書き込まれていて
(そういうのを見ちゃうだけの冷静さはあったみたい)
何て美しいスコア。
音響構築の完璧さ。
(移調楽器が多いのには参るけど・・・読めないじゃんか)
ああ、ここでこの楽器をこう重ねると
こういう音が出るのか、という目からの納得と
複雑な和声の妙味が
耳から入るわ、目から入るわ
ほとんど地獄だよ、これは(←狂喜している)
最後の1ページ。
指揮者にもオーケストラにも緊張感マックスで
聴いている方も固唾を飲んで集中する
あの最後の5分で
かなりでっかい声を出して
何回か咳き込んだ男性がいて
満場1800人の顰蹙を買っていた。
(まぁ、咳は仕方ないんですけど
普通、この曲を聴きに来る時は
のど飴を充分に用意した上
厚手のハンカチか小さなタオルを用意しませんか?
いや、しないんだよね、ウィーンの聴衆って(ため息)
・・・それでも顰蹙買う咳をしたのが1人だけだった、というのは
ウィーンではスゴイ事ではある)
しかしあの世界観はいったい何なんだ。
作品そのものの持っている力というのは
当然あるのだけれど
ヤンソンスとバイエルン放送交響楽団が描き出した
地獄のような天国のような
あの圧倒的な音響空間に出現した
全く別の世界って、何だったんだろう。
スコア追っていたお陰で
最後の音がどれかは明確にわかったんだけど
もうその時には
次元の違う空間に思い切りすっ飛ばされていて
全然コッチの世界に戻ってこられない状態。
マーラーの9番だから、と覚悟はしていたけれど
まさか異空間にすっ飛ばされるとは
考えてもみなかった。
もう完全にフラフラ状態で
会場出てから
同じコンサートに行ったらしい
年配のご婦人たちが
ウチの孫がね、なんて言う話をしているのを
地下鉄の駅で聞きながら
ううう、私も早いところ
現実世界に戻らねば・・・と思いつつも
頭の中でずっと、あの透明感のある厚みのある弦が鳴っていて
異次元の空間を彷徨っていて
いやこれ、今日は自分の車で運転して帰ったら危ない
・・・と
会社のガレージに車を突っ込んだまま
ボーッとしながら
公共交通機関で帰宅した私に
どうぞ1クリックをお恵み下さい。
しかしマーラーってコワイ。
ある意味、聴いているものの認識を
根底からひっくり返すだけの力を持っている。
くわばらくわばら。