Schloss Grafenegg Wolkenturm 2019年9月1日 19時15分〜21時30分
Rotterdam Philharmonic Orchestra
指揮・ピアノ Lahav Shani
Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791)
Konzert für Klavier und Orchester B-Dur KV 595 (1791)
Anton Bruckner (1824-1896)
Symphonie Nr. 5 B-Dur (1875-78)
午後は国立オペラ座のオープン・デイに行って
例年のごとく、バレエのリハーサル室で45分待って
ドミトルとエレナのシルヴィアのリハーサルを舐めるように見て
(あ〜、例年の事ながら怪しい日本人・・・)
舞台で、橋本清香さんと木本全優さんのシルヴィアとアミンタを見て
終わってすぐに車でグラーフェネックに向かうワタシ。
一緒にオープン・デイに行った同級生が大笑いしていたが
引退老人は忙しいのである(笑)
ギリギリ18時前に到着したので
ちょっと軽く食事でも、と思ったら
ピクニック・パヴィリオンは満杯で(涙)
ちょうど曲目解説の時間になったので
食事は諦めてホールの解説へ。
モーツァルトの最後のピアノ協奏曲(KV595=第27番)は
何となく聴き覚えのあるメロディが出てくる曲だが
第3楽章の出だしが、歌曲の「春への憧れ」に使われた、と聞いて
あっ、そりゃそうだ、と納得。
(というか、今まで気がつかなかったのは何だ、という気もするが)
ダニエル・バレンボイムが若かりし頃に
ヨーゼフ・クリップスの指揮でモーツァルトのピアノ協奏曲を弾いた時に
あるフレーズを強調して弾こうとしたら
クリップスに窘められたらしい。
「ベートーベンなら、そういう風に弾いても良いけれど
モーツァルトはダメだよ」
何故かと問うバレンボイムにクリップスは
「だって、ベートーベンは天国に行くけれど
モーツァルトは天国から来るからね」
・・・こういうモーツァルトの神格化って、実は私は好きではないのだが
如何にもモーツァルトの崇拝者が言いそうなセリフではある。
ブルックナーが5番を作曲した時は
失職して貧乏のどん底で絶望していて、というような話を聞いた後
庭に出て、何とか後ろの方で空いたデッキ・チェアを見つけて
(みんな何人かのグループでピクニックしているので
なかなか空いているデッキ・チェアがないのである)
会場から漏れ聴こえてくるピアノを聴きながら
風に吹かれてうたた寝というのは、最高の贅沢だと思う。
(コンサート会場入らず、ここで漏れ聞こえる演奏を聴きながら
ずっと寝っ転がっていた方が(以下省略))
指揮者のラハフ・シャニは
ウィーン交響楽団の第一ゲスト・コンダクターなので
何回か実際に聴いている。
派手な感じはないし、奇を衒ったところもない
比較的伝統的な優等生という感じがする。
モーツァルトのピアノ協奏曲の弾き振り。
ダイナミック・レンジがかなり大きい。
これって、もしかしたら
ヨーゼフ・クリップスがここに居たら
シャニ君、ベートーベンなら良いけれど
モーツァルトはダメだよ
・・・って言うタイプの演奏?
まぁ、そこまで大袈裟ではないし
天国でも地獄でも、何だかあまり悩みのないような
天真爛漫な感じのモーツァルト。
モーツァルトの神格化やら、宗教化やら
なんかもう、神さまのごとく崇拝されているからアレだけど
モーツァルト時代の音楽って
要は今で言う(貴族の)ポピュラー音楽だから
ありがたや、ありがたや、と拝みながら
畏み畏みつつ聴かなくても良いのではないか
・・・とか書くと
モーツァルト信者に叩き殺されるかもしれないが。
シャニのピアノって初めて聴くけれど
タッチが強くてクリアで力強い。
(だから時々本当にベートーベンっぽく聴こえる)
弾き振りについては、私は基本的には反対なのだが
モーツァルトやハイドンなんかは
もともと指揮者なしでも大丈夫に書かれているので
それはそれで良しとしよう。
後半はブルックナーの交響曲5番。
オーケストラがスタンド・バイして
指揮者がキューを出そうとする直前に
空から飛行機の爆音が・・・
多少収まったと思ったら
今度はオートバイの爆音が・・・
そんな感じなので
周囲で小声のお喋りをしている人たちの
爆音+小声のミックスで
最初のピアニッシモの弦のピチカートなんて
何にも聴こえて来ません!!!!(涙)
もちろんコオロギの合唱も派手に聞こえてくるが
カクテル・パーティ効果か
私の耳が、虫の鳴き声を雑音として聞くヨーロッパ風になったのか
あるいは内耳の基膜と有毛細胞が老化したのか
これはある程度シャット・ダウンできるようになったが。
かなり元気の良いブルックナーだなぁ。
庭でリハーサルを漏れ聞いた時も
おお、良く鳴るオーケストラだ、と思ったけれど
全体的に音量が豊かで
金管だけではなく、弦もよく鳴る。
シャニは暗譜で振っている。
全部頭の中に入ってるのか、すごいなぁ。
ただ、もちろん私の偏見のせいなんだけど
何となく優等生的で
元気の良さやダイナミックレンジの幅広さはあるけれど
ちょっと・・・つまらない(すみません)
だいたいブルックナーって
しつこく、しつこく、しつこく繰り返しがあるので
この繰り返しが同じように聴こえて来てしまうと
時々、むちゃくちゃ退屈になってしまうのだ。
(とか文句つけながら
だったら、お前、指揮してみたら?と言われたら
絶対に出来ません。悪しからず)
作曲した時代に、ブルックナーが貧窮していた、という話を聞いたので
諦観というよりは
作曲家の怒りのエネルギーを感じる、というのも
偏見のなせる技。
もともと教会音楽っぽいブルックナーを
夏の夕暮れに野外音楽堂で
広大な庭園で聴くと言うのが無理っぽいので
やっぱりブルックナーは
大聖堂の中で残響一杯で聴いた方が映えると思う。
まぁ、もっとも、ブルックナーって
ウィーンのオーケストラは大好きで
「オラ達の大先生」という感じでガンガン演奏するのを
かなり数多く聴いてしまっているから
その耳慣れもあって、耳逆らいを起こしているかもしれない。
そんな悪い音響の中で
目一杯の力強い音で演奏してくれたオーケストラは見事。
明日からは天気が崩れて
急激に気温が下がる予定。
来週も、木曜日からグラーフェネック通いがあるが
(最終のチクルスである)
たぶん、そろそろ野外ではなくて
屋内ホールになるのではないか、と
密かに期待している私に
どうぞ1クリックをお恵み下さい。
Rotterdam Philharmonic Orchestra
指揮・ピアノ Lahav Shani
Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791)
Konzert für Klavier und Orchester B-Dur KV 595 (1791)
Anton Bruckner (1824-1896)
Symphonie Nr. 5 B-Dur (1875-78)
午後は国立オペラ座のオープン・デイに行って
例年のごとく、バレエのリハーサル室で45分待って
ドミトルとエレナのシルヴィアのリハーサルを舐めるように見て
(あ〜、例年の事ながら怪しい日本人・・・)
舞台で、橋本清香さんと木本全優さんのシルヴィアとアミンタを見て
終わってすぐに車でグラーフェネックに向かうワタシ。
一緒にオープン・デイに行った同級生が大笑いしていたが
引退老人は忙しいのである(笑)
ギリギリ18時前に到着したので
ちょっと軽く食事でも、と思ったら
ピクニック・パヴィリオンは満杯で(涙)
ちょうど曲目解説の時間になったので
食事は諦めてホールの解説へ。
モーツァルトの最後のピアノ協奏曲(KV595=第27番)は
何となく聴き覚えのあるメロディが出てくる曲だが
第3楽章の出だしが、歌曲の「春への憧れ」に使われた、と聞いて
あっ、そりゃそうだ、と納得。
(というか、今まで気がつかなかったのは何だ、という気もするが)
ダニエル・バレンボイムが若かりし頃に
ヨーゼフ・クリップスの指揮でモーツァルトのピアノ協奏曲を弾いた時に
あるフレーズを強調して弾こうとしたら
クリップスに窘められたらしい。
「ベートーベンなら、そういう風に弾いても良いけれど
モーツァルトはダメだよ」
何故かと問うバレンボイムにクリップスは
「だって、ベートーベンは天国に行くけれど
モーツァルトは天国から来るからね」
・・・こういうモーツァルトの神格化って、実は私は好きではないのだが
如何にもモーツァルトの崇拝者が言いそうなセリフではある。
ブルックナーが5番を作曲した時は
失職して貧乏のどん底で絶望していて、というような話を聞いた後
庭に出て、何とか後ろの方で空いたデッキ・チェアを見つけて
(みんな何人かのグループでピクニックしているので
なかなか空いているデッキ・チェアがないのである)
会場から漏れ聴こえてくるピアノを聴きながら
風に吹かれてうたた寝というのは、最高の贅沢だと思う。
(コンサート会場入らず、ここで漏れ聞こえる演奏を聴きながら
ずっと寝っ転がっていた方が(以下省略))
指揮者のラハフ・シャニは
ウィーン交響楽団の第一ゲスト・コンダクターなので
何回か実際に聴いている。
派手な感じはないし、奇を衒ったところもない
比較的伝統的な優等生という感じがする。
モーツァルトのピアノ協奏曲の弾き振り。
ダイナミック・レンジがかなり大きい。
これって、もしかしたら
ヨーゼフ・クリップスがここに居たら
シャニ君、ベートーベンなら良いけれど
モーツァルトはダメだよ
・・・って言うタイプの演奏?
まぁ、そこまで大袈裟ではないし
天国でも地獄でも、何だかあまり悩みのないような
天真爛漫な感じのモーツァルト。
モーツァルトの神格化やら、宗教化やら
なんかもう、神さまのごとく崇拝されているからアレだけど
モーツァルト時代の音楽って
要は今で言う(貴族の)ポピュラー音楽だから
ありがたや、ありがたや、と拝みながら
畏み畏みつつ聴かなくても良いのではないか
・・・とか書くと
モーツァルト信者に叩き殺されるかもしれないが。
シャニのピアノって初めて聴くけれど
タッチが強くてクリアで力強い。
(だから時々本当にベートーベンっぽく聴こえる)
弾き振りについては、私は基本的には反対なのだが
モーツァルトやハイドンなんかは
もともと指揮者なしでも大丈夫に書かれているので
それはそれで良しとしよう。
後半はブルックナーの交響曲5番。
オーケストラがスタンド・バイして
指揮者がキューを出そうとする直前に
空から飛行機の爆音が・・・
多少収まったと思ったら
今度はオートバイの爆音が・・・
そんな感じなので
周囲で小声のお喋りをしている人たちの
爆音+小声のミックスで
最初のピアニッシモの弦のピチカートなんて
何にも聴こえて来ません!!!!(涙)
もちろんコオロギの合唱も派手に聞こえてくるが
カクテル・パーティ効果か
私の耳が、虫の鳴き声を雑音として聞くヨーロッパ風になったのか
あるいは内耳の基膜と有毛細胞が老化したのか
これはある程度シャット・ダウンできるようになったが。
かなり元気の良いブルックナーだなぁ。
庭でリハーサルを漏れ聞いた時も
おお、良く鳴るオーケストラだ、と思ったけれど
全体的に音量が豊かで
金管だけではなく、弦もよく鳴る。
シャニは暗譜で振っている。
全部頭の中に入ってるのか、すごいなぁ。
ただ、もちろん私の偏見のせいなんだけど
何となく優等生的で
元気の良さやダイナミックレンジの幅広さはあるけれど
ちょっと・・・つまらない(すみません)
だいたいブルックナーって
しつこく、しつこく、しつこく繰り返しがあるので
この繰り返しが同じように聴こえて来てしまうと
時々、むちゃくちゃ退屈になってしまうのだ。
(とか文句つけながら
だったら、お前、指揮してみたら?と言われたら
絶対に出来ません。悪しからず)
作曲した時代に、ブルックナーが貧窮していた、という話を聞いたので
諦観というよりは
作曲家の怒りのエネルギーを感じる、というのも
偏見のなせる技。
もともと教会音楽っぽいブルックナーを
夏の夕暮れに野外音楽堂で
広大な庭園で聴くと言うのが無理っぽいので
やっぱりブルックナーは
大聖堂の中で残響一杯で聴いた方が映えると思う。
まぁ、もっとも、ブルックナーって
ウィーンのオーケストラは大好きで
「オラ達の大先生」という感じでガンガン演奏するのを
かなり数多く聴いてしまっているから
その耳慣れもあって、耳逆らいを起こしているかもしれない。
そんな悪い音響の中で
目一杯の力強い音で演奏してくれたオーケストラは見事。
明日からは天気が崩れて
急激に気温が下がる予定。
来週も、木曜日からグラーフェネック通いがあるが
(最終のチクルスである)
たぶん、そろそろ野外ではなくて
屋内ホールになるのではないか、と
密かに期待している私に
どうぞ1クリックをお恵み下さい。