ミヒャエル・シャーデ + マルコルム・マルティヌー

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    Musikverein Brahms-Saal 2019年4月2日 19時30分〜20時45分

    テノール Michael Schade
    ピアノ Malcolm Martineau

    Franz Schubert (1797-1828)
     Die schone Mullerin, D 795

    シューベルトのチクルス「美しき水車小屋の娘」は
    この甘い声のテノールが得意中の得意とするもので
    私も何回かナマで聴いている。

    ただ・・・
    拍手が鳴りやまないうちに急に歌い出した1曲目。
    え? 声があまり響かないし、無理やり出しているみたいで
    フォルテは張りがあるけれど
    ピアノ(楽器じゃなくて強さの方の)が出てないし
    ソット・ヴォーチェもちょっと掠れていて
    もしかしたら、まだ声出しを充分しない状態?
    (もちろん意図的に声出ししてない、という事もあり得る。
     何せ長いチクルスで20曲一気に歌わねばならないから)

    もともとシャーデの甘い声は
    メロディ・ラインで活きて来る声なので
    最初のあのリズミックな曲では
    あ〜、ステキな声、と陶酔出来ないという事はあるが
    2曲目の Wohin? など、弱音での美しさで聴かせる曲なのに
    今一つ、弱音のコントロールが出来ていない印象。

    3曲目のメロディ・ラインから少しづつコントロールを取り戻して来た。
    いくつかの曲は休みなしにブロックとして演奏されて
    これはなかなか良いアイデア。
    集中力が切れないし、前後のリートとの関係がよくわかる。
    (ただ、ウィーンの聴衆は、咳をする時間がない(笑))

    来ている人たちはリート・ファンなので
    かなり静かで、あまり咳もないのが快適。
    楽友協会の椅子の軋みには時々腹が立つが
    (大ホールのみならず、ブラームス・ホールの椅子も古いのだ)
    まぁ、それは仕方ないし
    この位、静かだったら、ソット・ヴォーチェが美しく響く。

    シャーデの水車小屋の娘は
    大昔(15年くらい前か・・・)に聴いて
    あまりにオペラちっくなのでひっくり返った事があるが
    最近のリート歌手は、以前に比べて表現が豊かになって来たので
    今回のシャーデの表現も、現代ではあまり特異には響かない。

    6番目の Die Neugierige くらいから
    完全に調子を取り戻した感じ。
    そうすると、やっぱりシャーデのソット・ヴォーチェは美しい。
    かなり音量を下げているが
    聴衆が静かなので、ばっちり聴こえる (^^)v

    Tränenregen の最後の Ade, ich geh nach Haus が
    いやもう、この娘、絶対に主人公を愛してないだろ(笑)
    かなり冷たい態度と言うか
    なにこいつ、付き合ってやってるけど、ちょっとウザいわ
    ・・・という妄想がふつふつと湧き上がる(偏見です)

    Mein! での舞い上がり方なんだけど
    何だかここら辺で、この主人公も
    実は水車小屋の娘なんか、どうでも良いんじゃないか
    ・・・という、とんでもない妄想。
    だって、最後の Mein! のリフレイン
    独占欲の塊と言うか
    ほら、俺だって、女をモノに出来るんだ、見たか
    ・・・だから私の勝手な妄想ですが。

    次の Pause もそうなんだけど
    この男、自分で煽って自分1人で盛り上がってるんじゃないの。
    でも、この Pause と次の Mit dem grünen Lautenbande あたりは
    シャーデの美しい弱音での美声をたっぷり聴かせてもらえるのは嬉しい。

    急激展開の Der Jäger は、まるで早口言葉(笑)
    すごいテンポで、テキストはちゃんと歌っているし
    音がブレないのはスゴイと思うし
    ものすごくエモーショナルな表現で
    くそ!って感じで、足踏みまでしてたもん。

    あ〜、またしょうもない妄想が湧き上がって来て
    こいつ、恋人が狩人に惚れた事で怒っているんじゃなくて
    自分のプライドが傷ついたから腹を立ててるだけじゃないか

    ・・・と思ってしまうのは、私が歳取って
    恋だの愛だのに懐疑的になっているからであって
    シューベルトともミュラーとも関係ありません、念の為。

    Die liebe Farbe って
    歌詞だけ読んでいると
    ベジタリアンの環境保護団体かこれは、とか思っちゃうし(すみません)

    ここら辺、シャーデも本調子で
    主人公の気分の浮き沈みを、見事に描き出す。
    Trockene Blumen の最後も
    Der Mai ist kommen, Der Winter ist aus.
    の部分を高らかには歌い上げないので
    スムーズに次の小川との会話と子守唄に続く。

    この歌曲集、ドイツ語わからない時から聴いているので
    詩も、そこそこ頭に入っていた、と思っていたのだが

    よく聴いて(読んで)みると
    以前、フローリアン・ベッシュが言っていた通り
    非常に不思議な不思議な詩ではある。

    だいたい、この詩の主人公って誰なんだ??
    疑いもなく、水車小屋に来た若い男だと思っていたけれど
    いつも出てくる小川さん(笑)は
    最後の Der Müller und der Bach で
    突然、主人公と並んで偉そうな事を言い出し(すみません、変な表現で)
    最後の Des Baches Wiegenlied では
    水車小屋の若い男を差し置いて、主人公になっているではないか。

    ・・・ってそんな事に今まで気がつかなかった私がオカシイのだが(自爆)

    シャーデの水車小屋の男の子は
    張り切ってやって来て
    一番手近な女の子に恋して
    というより、恋に恋して
    向こうが乗り気でないのに、1人盛り上がって
    おお、俺も女をモノにしたぞ、と急にマッチョになったら
    もっとマッチョな狩人に恋人を取られ
    (いやでも、この女の子、最初から主人公に恋してないよね?)
    プライド傷つけられて、ごちゃごちゃした挙句
    小川なり、小川が提供する聖母のような優しさに
    甘えかかって終わり、みたいな感じがする。

    最後に主人公に躍り出る小川だが
    あのピアニッシモの美声で、この上なく繊細に歌われると
    小川=聖母マリア的な
    すべてを受け入れて許して休ませてくれる場所のような
    とても大きな愛に満ちたスペースという印象がある。

    男の子は自殺したのかどうかはわからない。
    ベッシュがやったみたいに、絶対に死んでない、という解釈ではないけれど
    ただ、あの小川の優しさを、あの甘い声で静かに歌われると
    いったん、ちょっと休みを取って
    よく寝て、休憩してから、次の旅に出ようね、みたいにも思える。

    ドイツ・リートって
    本当に何回聴いても、その度ごとに何らかの発見があるし
    歌手によっても全然解釈が違うし
    ドイツ語の印象も、その時々で変わってくる
    (・・・のは、自分のドイツ語力、特に文学的解釈能力がないからだが)

    久し振りに美しき水車小屋の娘を集中して聴けて
    シャーデのソット・ヴォーチェも堪能して
    またもや、内容の解釈について
    頭の中にたくさんクエスチョン・マークをもらったし
    (実はそういうの好きなの)
    いや〜、楽しかった、と満足している私に
    どうぞ1クリックをお恵み下さい。



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