2023年8月15日
*** すみません、むちゃくちゃ長い記録になりました。
読むのが大変なので💦 お時間が充分ある時にどうぞ 🙇♀️
8月15日はヨーロッパ・カトリック圏の祝日で
オーストリア、ベルギー、フランス、イタリア
ルクセンブルク、ポーランド、ポルトガル、スペイン
リヒテンシュタインが法律で定められた祝日。
国全体がカトリックでないところは
スイスの8つの州は祝日で
ドイツのザールラント、バイエルンの行政地区の一部は祝日。
イエス・キリストの母、マリアが昇天した祝日なので
マリアを普通の人とみなすプロテスタントでは
祝日ではないのだ。
(不公平・・・という意見もあるだろうが
プロテスタントではイースター前の
聖金曜日は祝日である。カトリックでは普通の金曜日だが)
祝日というのは
お店は全て閉まって、買い物は出来ない。
(基本的にスーパーマーケットを含む)
土曜日・日曜日も開けてくれている
オーストリア国立図書館もお休みだし
大学の図書館も閉まっている。
自宅で勉強できない(というより「しない」)ワタシにとっては
現実逃避をしてしまう機会・・・(こらこらこらこら!)
というワケで
友人を誘って
エッカルツアウ城の見学に行って来た。
天気は良いし
車の冷房もバリバリに入るようになったし
ウィーンからのドライブには最適。
実はこのお城、何回も行ってはいるのである。
ただ、城の内部見学は
ガイディングのみで
行ったら、もうガイディングがなかったとか
結婚式でレンタルされていて見られなかったとか
何故かタイミングが悪くて・・・
今回は事前に調査しておいて
14時のガイディングにインターネットで予約した
・・・のだが
ちょっと時間の読みを間違えて
(カルヌントゥムのローマ遺跡が楽し過ぎて(笑))
慌てて、先方に電話して
16時の最後のガイディングに変更してもらった。
結果的には、16時でラッキー。
14時のガイディングには50人くらい来たらしいが
16時は20人くらいのグループで
ガイドさんの話もはっきり聞けた。
このお城、オーストリアの最後の皇帝カール1世(1887-1922) が
1918年11月11日に
ウィーンのシェーンブルン宮殿にある
中国の青い壁紙の部屋で
権利放棄の声明文にサインした後
オーストリアを去る前に
最後の滞在をした宮殿なのだ。
エッカルツアウ宮殿は
Eckertsau と書かれるので
エッケルツ・アウなのか(Eckerts-au)
エッケルト・ザウなのか(Eckert-sau)
かねがね疑問に思っていたが
既に13世紀頃に文書に言及がある城砦で
マルヒフェルトの平原に近いために
戦争が多く
(だってすぐ近くにはマジャール人やスラブ人)
エッケルトという名前の貴族が
堀に囲まれた城砦を作ったので
エッケルト家のアウ(=湿地帯)という名称になった。
ガイドさんの話によれば
当時は城砦の周りを
水を張った堀で固めれば
城砦を攻めてくる軍人はいなかったそうだ。
当時の軍人の甲冑は
最低でも20キロ
モノによっては50キロを越える重さがあって
水を張ってある堀で転んだら
そのまま起き上がれなくなって
死ぬのは確実だったから。
う〜ん、なるほどね。
その後、様々な貴族の所有になりながら
1720年にキンスキー家のフランツ・フェルディナント公が
この地域(湿地帯)を狩りの場所として購入したので
このお城も土地と一緒について来たとの事。
キンスキー家はお金持ちだったので
中世の城砦を、洒落たバロックに全面改装。
改装の指揮を取ったのが
ヨーゼフ・エマヌエル・フィッシャー・フォン・エルラッハ。
(お父さんのヨハン・ベルンハルト・フィシャー・フォン・エルラッハは
オーストリア国立図書館やカールス教会などの建築で有名)
1760年にハプスブルク家のマリア・テレジアが
この城をキンスキーからプライベートに入手して
フランツ・アントン・ヒルデブラントによって
増築と改築が行われたものの
この地域はドナウ川(当時は治水工事がされていない)が
年に2回、氾濫して
お城にも大きな被害をもたらしており
さすがのハプスブルク家も
1年に2回の大掛かりな修築工事は手に余る
・・・というので
その後、放置されていた。
時代は移り、1888年に
後に皇位後継者になる
ハプスブルク家のフランツ・フェルディナントが
狩りのためにこの城に来て
1897年に自分の所有にする。
1908年にはドイツ皇帝のヴィルヘルム2世も
狩りに招待されて、ここに宿泊した。
さて、ここで
「悲劇の皇帝」と言われる
フランツ・ヨゼフ1世の後継者が
どんどん死んで行ってしまった事件をちょっと・・・
(ここが長いので、読まなくても構いません)
フランツ・ヨゼフ1世の第一帝位後継者
息子のルドルフは
ウィーン郊外の狩の館のマイヤーリンクで
マリア・ヴェツェラと銃による自殺(1889年)
(ただし、本当に自殺だったのか、暗殺だったのかは
未だにわかっていない)
次の皇位継承者の
カール・ルードヴィヒ(フランツ・ヨゼフの3番目の弟)は
信心深い人で
ヨルダンで霊験あらたか、と言われる水を飲んで
腸チフスでシェーンブルン宮殿にて、1896年に死去。
(2番目の弟はメキシコ皇帝マクシミリアンで
メキシコでの暴動で1867年に銃殺されている)
このカール・ルードヴィヒの息子が
フランツ・フェルディナント (1863-1914)
フランツ・フェルディナントは
貴族ではあるものの
釣り合わない家系、ホテック家のソフィーと大恋愛。
子孫はハプスブルク家としては認めない旨の
契約書にサインして、貴賤結婚。
(アルトシュテッテン城にはホーエンベルク家があるが
この家系が、フランツ・フェルディナント直系)
貴族の結婚はほとんどが政略結婚なので
宮殿は真ん中から、北の部分(男性の住居)と
南部分(女性の住居)に分かれていたそうだが
フランツ・フェルディナントは恋愛結婚だったので
北の部分は閉鎖して
2人で仲良く南の部分に住んだとの事。
狩りが好きで
狩りの獲物は、生涯で27万5千頭。
(その中には象とかのエキゾチックな動物もいたとか。
5000頭は鹿だったそうだ)
いくつかの角は19世紀に増築された部分の回廊に飾ってある。
さて、ご存知の通り
このフランツ・フェルディナントは
1914年、サラエボでのパレードの際に
妻のソフィー共々
テロで銃殺されてしまう。
(第一次世界大戦勃発のきっかけ)
ハプスブルク家の直系男子として
フランツ・フェルディナントの2歳違いの弟
オットー・フランツに継承権が移ったのだが
この「麗しのオットー」と呼ばれる伊達男は
女性が好きで好きで
結果、1900年頃から梅毒を患って1906年に死去。
その麗しのオットーの
政略結婚の相手ザクセン公ゲオルクの王女
マリア・ヨーゼファとの間に生まれた息子が
フランツ・ヨゼフ亡き後の
最後のオーストリア皇帝となった
カール1世 (1887-1922)
あまりに面倒なので
ウィキからの簡単な系図を貼っておく。
(赤字による死因は筆者が補足)
カール1世は
1918年11月11日に
シェーンブルン宮殿にて権利放棄の書類にサインした後
すぐにシェーンブルン宮殿を出て
このエッカルツアウ城に移動。
このお城は帝国に属するものではなく
ハプスブルク・ロートリンゲン家の個人所有だった事と
ウィーンから近いため
新しい共和国政府が躓いて
帝政が復活すれば、すぐに戻れるし
ウィーンに戻れなくても
隣のハンガリー(オーストリア・ハンガリー帝国!)も近い、という理由。
当時のカール・レンナー首相(第一次共和制初代首相)が
カールとその家族をエッカルツアウ城に訪ね
オーストリア帝国の皇帝位から退位するか
退位せずに逮捕されるか
(カールは妻のツィタ共々、退位はしていない。
あくまでも「権利放棄」をしただけである)
あるいは、黙ってオーストリアを去るか
の選択を迫ったそうだ。
(それでなくても、周囲には暗殺しようとする人が
かなり居たらしいので
エッカルツアウ城も安全な場所とは言えなくなっていたようだが)
というわけで
カールとその家族はスイスに亡命するが
その後、ハンガリーの帝位は保持していたために
何回かの返り咲きを試みたものの
全て失敗して
ポルトガル領マデイラ島に流され
困窮の中で
風邪を拗らせて、そのまま体調が戻らず
34歳で亡くなった。
妻であるブルボン・パルマ家のツィタは
夫のカール亡き後は
マリア・テレジアのようにずっと喪服を着て
1989年に96歳でスイスで死去。
1989年4月1日に
ウィーンのカプツィーナ納骨堂に
心臓を除いて(心臓はスイスのムーリ修道院)眠っている。
(カールは、そのままマデイラ島に埋葬されている。)
最後まで「退位」はしなかったが
長男のオットーは1961年に
オーストリア帝位請求権の放棄を宣言している。
(1963年に行政裁判所にて宣言を認定)
カール1世がオーストリア帝国の皇帝位についたのは
第一次世界大戦の真っ只中で
結婚したのがイタリア・フランス系の女性だった事も
市民の反感をかった上
何とか、早く戦争を終わらせて
オーストリア国民の犠牲を最小限にとどめたい、と
フランスとの秘密交渉をしていたのが
クレマンソーに秘密をばらされて
ますます国民が反感を募らせたり
本当に、ここらへんの歴史を探っていくと
良かれと思ってやった事が
次から次に裏目に出てしまう、という悲劇が
どんどん出て来て
やりきれない気分になって来る。
ガイディングで
オーストリアを去る前の
最後のランチを取った部屋を見せてくれる。
(第二次世界大戦で、中のものはほとんど盗難にあい
現在、展示されているのは
オーストリア家具博物館からのレンタルだとか)
メニューは
スープ(フリタッテン・ズッペ)
ジビエの盛り合わせ
ワイルド・ベリーのケーキ
というもので
ガイドさん曰く
ジビエって高級そうに聞こえるけれど
イノシシはそこら中に居るので
食べる側も飽き飽きしていたらしい(笑)
最後のクリスマス・パーティをした図書室。
前皇帝一家のご滞在という事で
当時は150人を越える召使いが働いていて
ほとんどの召使いが地元の人。
クリスマスには、この召使い全員の名前を読み上げて
全員にプレゼントを配るという習慣があったそうで
イギリス国王(ジョージ)からの資金援助はあったものの
150人分のプレゼントには足りず
ツィタがどうしようか悩んでいた時に
屋根裏部屋から
小さなプレゼントがたくさん入ったトランクが出て来て
助かった、というエピソードも聞いた。
最後のミサをチャペルで行った時には
泣き出す召使いも多かったらしい・・・が
ガイドさん曰く
別れがどうのこうのではなくて
仕事がなくなるから
明日から住むところと食べるものと
収入がなくなっちゃう・・・と言うのが
泣いた理由ではないか(笑)
このお城、現在はオーストリア森林局が管理していて
ウエディング・ロケーションとしても人気があるらしい。
内部はガイディング・ツアーでしか見られないけれど
歴史の話も含めて
オーストリアの歴史に興味ある方はぜひどうぞ。
公式サイトは こちら
英語とスロヴァキア語のサイトもある。
サイト内で Über Schloss Eckertsau のところには
バーチャル・ツアーもあって
各ルームをマウスで360度見る事も出来る。
近くのマルヒフェルトの湿地帯では
デュルンクルートの近くで
1278年にハプスブルクのルドルフ1世が
ボヘミア王プシェミスル朝のオタカル2世を破った戦争があって
これ以降、ハプスブルク家は
オーストリアを支配する事になるので
ハプスブルク家のオーストリア支配の始まりと終わりを
1日のドライブで体験できる地方でもある。
久し振りに
オーストリアの歴史に思いを馳せて
ひたすら現実逃避をしてしまった私に
どうぞ1クリックをお恵み下さい。
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読むのが大変なので💦 お時間が充分ある時にどうぞ 🙇♀️
8月15日はヨーロッパ・カトリック圏の祝日で
オーストリア、ベルギー、フランス、イタリア
ルクセンブルク、ポーランド、ポルトガル、スペイン
リヒテンシュタインが法律で定められた祝日。
国全体がカトリックでないところは
スイスの8つの州は祝日で
ドイツのザールラント、バイエルンの行政地区の一部は祝日。
イエス・キリストの母、マリアが昇天した祝日なので
マリアを普通の人とみなすプロテスタントでは
祝日ではないのだ。
(不公平・・・という意見もあるだろうが
プロテスタントではイースター前の
聖金曜日は祝日である。カトリックでは普通の金曜日だが)
祝日というのは
お店は全て閉まって、買い物は出来ない。
(基本的にスーパーマーケットを含む)
土曜日・日曜日も開けてくれている
オーストリア国立図書館もお休みだし
大学の図書館も閉まっている。
自宅で勉強できない(というより「しない」)ワタシにとっては
現実逃避をしてしまう機会・・・(こらこらこらこら!)
というワケで
友人を誘って
エッカルツアウ城の見学に行って来た。
天気は良いし
車の冷房もバリバリに入るようになったし
ウィーンからのドライブには最適。
実はこのお城、何回も行ってはいるのである。
ただ、城の内部見学は
ガイディングのみで
行ったら、もうガイディングがなかったとか
結婚式でレンタルされていて見られなかったとか
何故かタイミングが悪くて・・・
今回は事前に調査しておいて
14時のガイディングにインターネットで予約した
・・・のだが
ちょっと時間の読みを間違えて
(カルヌントゥムのローマ遺跡が楽し過ぎて(笑))
慌てて、先方に電話して
16時の最後のガイディングに変更してもらった。
結果的には、16時でラッキー。
14時のガイディングには50人くらい来たらしいが
16時は20人くらいのグループで
ガイドさんの話もはっきり聞けた。
このお城、オーストリアの最後の皇帝カール1世(1887-1922) が
1918年11月11日に
ウィーンのシェーンブルン宮殿にある
中国の青い壁紙の部屋で
権利放棄の声明文にサインした後
オーストリアを去る前に
最後の滞在をした宮殿なのだ。
エッカルツアウ宮殿は
Eckertsau と書かれるので
エッケルツ・アウなのか(Eckerts-au)
エッケルト・ザウなのか(Eckert-sau)
かねがね疑問に思っていたが
既に13世紀頃に文書に言及がある城砦で
マルヒフェルトの平原に近いために
戦争が多く
(だってすぐ近くにはマジャール人やスラブ人)
エッケルトという名前の貴族が
堀に囲まれた城砦を作ったので
エッケルト家のアウ(=湿地帯)という名称になった。
ガイドさんの話によれば
当時は城砦の周りを
水を張った堀で固めれば
城砦を攻めてくる軍人はいなかったそうだ。
当時の軍人の甲冑は
最低でも20キロ
モノによっては50キロを越える重さがあって
水を張ってある堀で転んだら
そのまま起き上がれなくなって
死ぬのは確実だったから。
う〜ん、なるほどね。
その後、様々な貴族の所有になりながら
1720年にキンスキー家のフランツ・フェルディナント公が
この地域(湿地帯)を狩りの場所として購入したので
このお城も土地と一緒について来たとの事。
キンスキー家はお金持ちだったので
中世の城砦を、洒落たバロックに全面改装。
改装の指揮を取ったのが
ヨーゼフ・エマヌエル・フィッシャー・フォン・エルラッハ。
(お父さんのヨハン・ベルンハルト・フィシャー・フォン・エルラッハは
オーストリア国立図書館やカールス教会などの建築で有名)
1760年にハプスブルク家のマリア・テレジアが
この城をキンスキーからプライベートに入手して
フランツ・アントン・ヒルデブラントによって
増築と改築が行われたものの
この地域はドナウ川(当時は治水工事がされていない)が
年に2回、氾濫して
お城にも大きな被害をもたらしており
さすがのハプスブルク家も
1年に2回の大掛かりな修築工事は手に余る
・・・というので
その後、放置されていた。
時代は移り、1888年に
後に皇位後継者になる
ハプスブルク家のフランツ・フェルディナントが
狩りのためにこの城に来て
1897年に自分の所有にする。
1908年にはドイツ皇帝のヴィルヘルム2世も
狩りに招待されて、ここに宿泊した。
さて、ここで
「悲劇の皇帝」と言われる
フランツ・ヨゼフ1世の後継者が
どんどん死んで行ってしまった事件をちょっと・・・
(ここが長いので、読まなくても構いません)
フランツ・ヨゼフ1世の第一帝位後継者
息子のルドルフは
ウィーン郊外の狩の館のマイヤーリンクで
マリア・ヴェツェラと銃による自殺(1889年)
(ただし、本当に自殺だったのか、暗殺だったのかは
未だにわかっていない)
次の皇位継承者の
カール・ルードヴィヒ(フランツ・ヨゼフの3番目の弟)は
信心深い人で
ヨルダンで霊験あらたか、と言われる水を飲んで
腸チフスでシェーンブルン宮殿にて、1896年に死去。
(2番目の弟はメキシコ皇帝マクシミリアンで
メキシコでの暴動で1867年に銃殺されている)
このカール・ルードヴィヒの息子が
フランツ・フェルディナント (1863-1914)
フランツ・フェルディナントは
貴族ではあるものの
釣り合わない家系、ホテック家のソフィーと大恋愛。
子孫はハプスブルク家としては認めない旨の
契約書にサインして、貴賤結婚。
(アルトシュテッテン城にはホーエンベルク家があるが
この家系が、フランツ・フェルディナント直系)
貴族の結婚はほとんどが政略結婚なので
宮殿は真ん中から、北の部分(男性の住居)と
南部分(女性の住居)に分かれていたそうだが
フランツ・フェルディナントは恋愛結婚だったので
北の部分は閉鎖して
2人で仲良く南の部分に住んだとの事。
狩りが好きで
狩りの獲物は、生涯で27万5千頭。
(その中には象とかのエキゾチックな動物もいたとか。
5000頭は鹿だったそうだ)
いくつかの角は19世紀に増築された部分の回廊に飾ってある。
さて、ご存知の通り
このフランツ・フェルディナントは
1914年、サラエボでのパレードの際に
妻のソフィー共々
テロで銃殺されてしまう。
(第一次世界大戦勃発のきっかけ)
ハプスブルク家の直系男子として
フランツ・フェルディナントの2歳違いの弟
オットー・フランツに継承権が移ったのだが
この「麗しのオットー」と呼ばれる伊達男は
女性が好きで好きで
結果、1900年頃から梅毒を患って1906年に死去。
その麗しのオットーの
政略結婚の相手ザクセン公ゲオルクの王女
マリア・ヨーゼファとの間に生まれた息子が
フランツ・ヨゼフ亡き後の
最後のオーストリア皇帝となった
カール1世 (1887-1922)
あまりに面倒なので
ウィキからの簡単な系図を貼っておく。
(赤字による死因は筆者が補足)
カール1世は
1918年11月11日に
シェーンブルン宮殿にて権利放棄の書類にサインした後
すぐにシェーンブルン宮殿を出て
このエッカルツアウ城に移動。
このお城は帝国に属するものではなく
ハプスブルク・ロートリンゲン家の個人所有だった事と
ウィーンから近いため
新しい共和国政府が躓いて
帝政が復活すれば、すぐに戻れるし
ウィーンに戻れなくても
隣のハンガリー(オーストリア・ハンガリー帝国!)も近い、という理由。
当時のカール・レンナー首相(第一次共和制初代首相)が
カールとその家族をエッカルツアウ城に訪ね
オーストリア帝国の皇帝位から退位するか
退位せずに逮捕されるか
(カールは妻のツィタ共々、退位はしていない。
あくまでも「権利放棄」をしただけである)
あるいは、黙ってオーストリアを去るか
の選択を迫ったそうだ。
(それでなくても、周囲には暗殺しようとする人が
かなり居たらしいので
エッカルツアウ城も安全な場所とは言えなくなっていたようだが)
というわけで
カールとその家族はスイスに亡命するが
その後、ハンガリーの帝位は保持していたために
何回かの返り咲きを試みたものの
全て失敗して
ポルトガル領マデイラ島に流され
困窮の中で
風邪を拗らせて、そのまま体調が戻らず
34歳で亡くなった。
妻であるブルボン・パルマ家のツィタは
夫のカール亡き後は
マリア・テレジアのようにずっと喪服を着て
1989年に96歳でスイスで死去。
1989年4月1日に
ウィーンのカプツィーナ納骨堂に
心臓を除いて(心臓はスイスのムーリ修道院)眠っている。
(カールは、そのままマデイラ島に埋葬されている。)
最後まで「退位」はしなかったが
長男のオットーは1961年に
オーストリア帝位請求権の放棄を宣言している。
(1963年に行政裁判所にて宣言を認定)
カール1世がオーストリア帝国の皇帝位についたのは
第一次世界大戦の真っ只中で
結婚したのがイタリア・フランス系の女性だった事も
市民の反感をかった上
何とか、早く戦争を終わらせて
オーストリア国民の犠牲を最小限にとどめたい、と
フランスとの秘密交渉をしていたのが
クレマンソーに秘密をばらされて
ますます国民が反感を募らせたり
本当に、ここらへんの歴史を探っていくと
良かれと思ってやった事が
次から次に裏目に出てしまう、という悲劇が
どんどん出て来て
やりきれない気分になって来る。
ガイディングで
オーストリアを去る前の
最後のランチを取った部屋を見せてくれる。
(第二次世界大戦で、中のものはほとんど盗難にあい
現在、展示されているのは
オーストリア家具博物館からのレンタルだとか)
メニューは
スープ(フリタッテン・ズッペ)
ジビエの盛り合わせ
ワイルド・ベリーのケーキ
というもので
ガイドさん曰く
ジビエって高級そうに聞こえるけれど
イノシシはそこら中に居るので
食べる側も飽き飽きしていたらしい(笑)
最後のクリスマス・パーティをした図書室。
前皇帝一家のご滞在という事で
当時は150人を越える召使いが働いていて
ほとんどの召使いが地元の人。
クリスマスには、この召使い全員の名前を読み上げて
全員にプレゼントを配るという習慣があったそうで
イギリス国王(ジョージ)からの資金援助はあったものの
150人分のプレゼントには足りず
ツィタがどうしようか悩んでいた時に
屋根裏部屋から
小さなプレゼントがたくさん入ったトランクが出て来て
助かった、というエピソードも聞いた。
最後のミサをチャペルで行った時には
泣き出す召使いも多かったらしい・・・が
ガイドさん曰く
別れがどうのこうのではなくて
仕事がなくなるから
明日から住むところと食べるものと
収入がなくなっちゃう・・・と言うのが
泣いた理由ではないか(笑)
このお城、現在はオーストリア森林局が管理していて
ウエディング・ロケーションとしても人気があるらしい。
内部はガイディング・ツアーでしか見られないけれど
歴史の話も含めて
オーストリアの歴史に興味ある方はぜひどうぞ。
公式サイトは こちら
英語とスロヴァキア語のサイトもある。
サイト内で Über Schloss Eckertsau のところには
バーチャル・ツアーもあって
各ルームをマウスで360度見る事も出来る。
近くのマルヒフェルトの湿地帯では
デュルンクルートの近くで
1278年にハプスブルクのルドルフ1世が
ボヘミア王プシェミスル朝のオタカル2世を破った戦争があって
これ以降、ハプスブルク家は
オーストリアを支配する事になるので
ハプスブルク家のオーストリア支配の始まりと終わりを
1日のドライブで体験できる地方でもある。
久し振りに
オーストリアの歴史に思いを馳せて
ひたすら現実逃避をしてしまった私に
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