2024年3月15日 19時30分〜21時
Musikverein - Großer Saal
ORF Radio-Symphonieorchester Wien
指揮 Marin Alsop
Gustav Mahler (1860-1911)
Symphonie Nr. 9 D-Dur
ウィーン放送交響楽団とオールソップが
マーラーを演奏する、と言うなら
行かない、という選択肢はない(笑)
最近、楽友協会のチケットはよく売れている。
チケットの値段は急激にアップはしているのだが
その代わり
14歳から29歳までの若人には
むちゃくちゃ安くて良いオファーをしているのだ。
え〜い、シニアにもオファーをくれ。
係の人も
こんなに来ているのに
何の割引もないの?ってビックリしてるのに(笑)
さて、この曲は
ご存知の通り
私は最終楽章は必ずスコア持ち込み。
(アホなので、スコア見てないと
どこで終わるのかわからず
精神的に不安定になってしまう)
オールソップ、ウィーンの聴衆に人気あるなぁ。
どこのコンサートでも
彼女が登場すると
最初からブラボーが掛かったりする。
女性指揮者の道を開いて来た人だし
映画のドキュメンタリーを作ったりという
セルフ・マネージメントにも長けているという理由もあるが
ワタクシ的には
この世代の「戦った女性指揮者たち」というのは
本当に勉強熱心で優秀な人が多いと思う。
(最近は「女性枠」で、まぁ、色々(以下自粛))
この間のマーラーでも思ったのだが
ウィーン放送響とオールソップのマーラーは
解像度が非常に高くて緻密。
各パートが紡ぐ糸が
様々な色と太さで
まるで極彩色の厚地の絨毯の
織り目を見ているような気分になる。
同時に、満ち溢れるエネルギーの奔流。
オールソップの動きも情熱的で
バーンスタインの弟子・・・って
あまり関係ないか。
バーンスタインのような
思い入れたっぷりのケレン味てんこ盛りではなく
(あっ、バーンスタイン・ファンの皆さま、ごめんなさい)
もっとモダンな
曲とワンクッション置くような
分析的な部分での処理が非常に巧い。
しかも、ものすごいエネルギーの奔流。
この曲、よくマーラーの白鳥の歌とか言われて
死を覚悟した(あるいは予感した)
マーラーの最後の諦観と言われる事が多いが
この溢れるエネルギーを持った曲の
どこに「死」の予感があるのよ(個人的印象です)
って言うか、ひたすら元気じゃん。
流れるように溢れ出す音楽性とエネルギー
皮肉に満ちたレンドラーは
遅めに始めた、と思ったら
見事にテンポをコントロールして
中弛みのない緊張感をそのまま持続させて
硬めの音響が非常に皮肉っぽい
締まった筋肉質な演奏。
第3楽章の奔放さも素晴らしい。
コントロールは効いているけれど
爆発するような鋭い響きが快感だし
どこが「白鳥の歌」なんだ、こんなにエネルギッシュなのに。
この曲、1910年に作曲され
グスタフ・マーラーは1911年5月18日に亡くなって
死後の1912年6月26日に初演された
って言うのも「伝説の誕生」の理由なんだろうなぁ。
名だたる音楽家や音楽評論家が
こぞって「死の予感」に言及している上
マーラーの解釈に大いなる影響を及ぼした
指揮者メンゲルベルクのメモも残っているし
現代の音楽学者も解釈学傾向のある人は
(ご存知コンスタンティン・フローロス)
「死の予感」を
マーラーのスコアへのメモから読み取っている。
だけど、曲そのものを聴く限り
マーラーらしい
尖った皮肉やシニカルさが山盛りで
迫り来る死に怯えてるとか
人生に別れを告げている、とか感じないんだけど
それってワタシの感受性のなさなのか。
(そうですきっとごめんなさい)
最終楽章に
キッチュなアダージョを使うのは
他の交響曲でもあるので
観客ウケ狙いの戦略とも思えるけれど
その前の3楽章が
元気で
はちゃめちゃのエネルギー放出だったので
その分
フラット山盛りの変ニ長調の
厚みのある和声の美しさにジーンとする。
何だかヘンな陶酔感というか
色気というか
えらく艶っぽく聴こえて来るのは
私の妄想が暴走しているからか・・・(ごめんなさい)
もちろん、マーラーはこの曲を書いている時に
死を意識して、その予感に怯えたかもしれないし
(それ言うなら、マーラーの交響曲って
全部がそうじゃないの?・・・8番は例外として)
どういう意図と意味を込めて作曲したかは
聴衆にはわからない。
よく、最後の ersterbend (死にいくように)が
引用されるけれど
スコアには(少なくとも私の持ってるスコアには)
ersterbend は
最後の1音にだけ書いてあって
他の場所には見つけられない。
(要は、最後の音は
消えいるように伸ばしてね、って事じゃないの?)
どえらい大物たちが
死の予感だの、生からの訣別だのを
声高々に主張しているので
聴衆としては
そう言う意味合いで聴くのが
正しい聴き方、と洗脳されちゃうけれど
まぁ、多様性の世界が許容される
今日この頃なのはありがたい、と
ひたすら開き直るワタシに
どうぞ1クリックをお恵み下さい。
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個人的な好みではあるけれど
この間のウィーン・フィルと
フランツ・ヴェルザー=メストの
摩訶不思議なコンサートより
ストンと納得できる演奏だったと思う。
良し悪しについてはノーコメント。
ORF Radio-Symphonieorchester Wien
指揮 Marin Alsop
Gustav Mahler (1860-1911)
Symphonie Nr. 9 D-Dur
ウィーン放送交響楽団とオールソップが
マーラーを演奏する、と言うなら
行かない、という選択肢はない(笑)
最近、楽友協会のチケットはよく売れている。
チケットの値段は急激にアップはしているのだが
その代わり
14歳から29歳までの若人には
むちゃくちゃ安くて良いオファーをしているのだ。
え〜い、シニアにもオファーをくれ。
係の人も
こんなに来ているのに
何の割引もないの?ってビックリしてるのに(笑)
さて、この曲は
ご存知の通り
私は最終楽章は必ずスコア持ち込み。
(アホなので、スコア見てないと
どこで終わるのかわからず
精神的に不安定になってしまう)
オールソップ、ウィーンの聴衆に人気あるなぁ。
どこのコンサートでも
彼女が登場すると
最初からブラボーが掛かったりする。
女性指揮者の道を開いて来た人だし
映画のドキュメンタリーを作ったりという
セルフ・マネージメントにも長けているという理由もあるが
ワタクシ的には
この世代の「戦った女性指揮者たち」というのは
本当に勉強熱心で優秀な人が多いと思う。
(最近は「女性枠」で、まぁ、色々(以下自粛))
この間のマーラーでも思ったのだが
ウィーン放送響とオールソップのマーラーは
解像度が非常に高くて緻密。
各パートが紡ぐ糸が
様々な色と太さで
まるで極彩色の厚地の絨毯の
織り目を見ているような気分になる。
同時に、満ち溢れるエネルギーの奔流。
オールソップの動きも情熱的で
バーンスタインの弟子・・・って
あまり関係ないか。
バーンスタインのような
思い入れたっぷりのケレン味てんこ盛りではなく
(あっ、バーンスタイン・ファンの皆さま、ごめんなさい)
もっとモダンな
曲とワンクッション置くような
分析的な部分での処理が非常に巧い。
しかも、ものすごいエネルギーの奔流。
この曲、よくマーラーの白鳥の歌とか言われて
死を覚悟した(あるいは予感した)
マーラーの最後の諦観と言われる事が多いが
この溢れるエネルギーを持った曲の
どこに「死」の予感があるのよ(個人的印象です)
って言うか、ひたすら元気じゃん。
流れるように溢れ出す音楽性とエネルギー
皮肉に満ちたレンドラーは
遅めに始めた、と思ったら
見事にテンポをコントロールして
中弛みのない緊張感をそのまま持続させて
硬めの音響が非常に皮肉っぽい
締まった筋肉質な演奏。
第3楽章の奔放さも素晴らしい。
コントロールは効いているけれど
爆発するような鋭い響きが快感だし
どこが「白鳥の歌」なんだ、こんなにエネルギッシュなのに。
この曲、1910年に作曲され
グスタフ・マーラーは1911年5月18日に亡くなって
死後の1912年6月26日に初演された
って言うのも「伝説の誕生」の理由なんだろうなぁ。
名だたる音楽家や音楽評論家が
こぞって「死の予感」に言及している上
マーラーの解釈に大いなる影響を及ぼした
指揮者メンゲルベルクのメモも残っているし
現代の音楽学者も解釈学傾向のある人は
(ご存知コンスタンティン・フローロス)
「死の予感」を
マーラーのスコアへのメモから読み取っている。
だけど、曲そのものを聴く限り
マーラーらしい
尖った皮肉やシニカルさが山盛りで
迫り来る死に怯えてるとか
人生に別れを告げている、とか感じないんだけど
それってワタシの感受性のなさなのか。
(そうですきっとごめんなさい)
最終楽章に
キッチュなアダージョを使うのは
他の交響曲でもあるので
観客ウケ狙いの戦略とも思えるけれど
その前の3楽章が
元気で
はちゃめちゃのエネルギー放出だったので
その分
フラット山盛りの変ニ長調の
厚みのある和声の美しさにジーンとする。
何だかヘンな陶酔感というか
色気というか
えらく艶っぽく聴こえて来るのは
私の妄想が暴走しているからか・・・(ごめんなさい)
もちろん、マーラーはこの曲を書いている時に
死を意識して、その予感に怯えたかもしれないし
(それ言うなら、マーラーの交響曲って
全部がそうじゃないの?・・・8番は例外として)
どういう意図と意味を込めて作曲したかは
聴衆にはわからない。
よく、最後の ersterbend (死にいくように)が
引用されるけれど
スコアには(少なくとも私の持ってるスコアには)
ersterbend は
最後の1音にだけ書いてあって
他の場所には見つけられない。
(要は、最後の音は
消えいるように伸ばしてね、って事じゃないの?)
どえらい大物たちが
死の予感だの、生からの訣別だのを
声高々に主張しているので
聴衆としては
そう言う意味合いで聴くのが
正しい聴き方、と洗脳されちゃうけれど
まぁ、多様性の世界が許容される
今日この頃なのはありがたい、と
ひたすら開き直るワタシに
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個人的な好みではあるけれど
この間のウィーン・フィルと
フランツ・ヴェルザー=メストの
摩訶不思議なコンサートより
ストンと納得できる演奏だったと思う。
良し悪しについてはノーコメント。